謀られたハイパーインフレーション
前線での敗北と、物資と資源を運ぶラインを絶たれた独裁者フーニンは、酷く焦っていた。
強大なバックである中華国からの兵器供給を維持し、戦争を継続するためには、莫大な「現金」なり、「資源」で支払うしかなかったからだ。しかし、その共和国の台所事情すらも、すでに辺境伯一家の支配者の手のひらの上にあった。
辺境伯領の地下に隠された秘密工房。
長女セリアはおっとりとした微笑みを浮かべながら、一枚の「共和国紙幣」を光に透かしていた。
「……透かしOK、インクの配合OK、紙の質感OK、ですわ」
「流石はセリア嬢だ。で、どれくらい刷れる?」
暗闇から姿を現したキースの問いに、セリアはパチンと指を鳴らす。
工房の奥で稼働する数十台の輪転機から、共和国の「最高額紙幣」が滝のように吐き出されていた。それは紙質から手触り、匂いに至るまで、本物と全く見分けがつかない完璧な『偽札』だった。
「領内の紙とインクの在庫が尽きるまで、いくらでも。……さあキースおじ様。これを市場にどんどん流してきていただけますか?」
「ああ。だが、いきなりばら撒くような真似はしない。不自然な金の動きはすぐに怪しまれるからな」
キースは偽札の札束を手に取り、冷酷な暗殺者の目を細めた。
「俺の諜報部隊を使い、闇市や賭場、あるいは腐敗した役人への賄賂として……巧妙に、そして徐々に、奴らの経済の血脈へとこの猛毒を流し込んでやろう」
数日後から、共和国の市場にはキース率いる部隊の手によって、計算されたペースで偽札がばら撒かれ始めた。
最初は何の変哲もない日常だった。だが、市場に「本物と区別のつかない金」がじわじわと浸透していくにつれて、徐々に不気味な物価上昇が起こり始める。
先月まで銅貨一枚で買えたパンが、銀貨一枚になり、紙幣一枚になり――やがて、小さなパン一つを買うためだけであっても、
「100万ルーブ」という荷車いっぱいの札束を積まなければならない、壊滅的なハイパーインフレへと突入していった。
異常なインフレの原因が「大規模な偽札作戦」であることに気付いたフーニン政権は、直ちに壊滅的な悪手となる強硬手段を断行する。
『本日をもって旧札の使用を全面禁止とする! 新札を発行し、「旧1万ルーブを新1ルーブ」とする通貨単位の大幅な切り下げ(デノミネーション)を行う!』
古い紙幣は一瞬で無効化され、価値を失った。国民は慌てて新しい紙幣へと交換しようと殺到したが、偽札の流入を恐れたフーニン政権は、ここで信じがたい制限を設けた。
『新札への交換は、一日に一人「新10ルーブ」を上限とする』
この愚劣な制限が、共和国経済に致命的な「目詰まり」を引き起こした。
ハイパーインフレによって、当時パン一つを買うのには旧100万ルーブが必要になっていた。新しいレート(1万分の1)に換算すれば、パンの適正価格は「新100ルーブ」となる。
しかし、国は一日に新10ルーブしか交換してくれない。つまり――家にどれだけ旧札の山があろうとも、「毎日欠かさず交換所に並んだとしても、パン一つ買うための新札を手に入れるのに10日かかる」という絶対的な絶望を意味していた。
商人は仕入れのための資金を新札に換えられず物流が完全に停止し、工場は労働者に給料を支払えない。
国家経済はここに完全に崩壊した。普通ならば、ここで大規模な暴動が起きて政権は転覆するはずだった。
だが――かつての旧帝国時代から圧政と困窮に耐え抜いてきた共和国の国民たちは、為政者が考える以上に「しぶとく、逞しかった」。
「ふざけるな! 10日も待っていたら餓死しちまう!」
「こんな紙切れ、もう真っ平だ! おい、俺の畑の芋をやるから、そっちの薪と交換してくれ!」
彼らは無価値になった紙幣システムを早々に見限り、自発的に巨大な『闇市』を形成し始めたのである。
貨幣を捨て去り、原始的な『物々交換』へと回帰することで、国民たちは国家の経済網を完全に無視して生き延びる道を選んだ。結果としてフーニン政権は暴動による崩壊こそ免れたものの、税収も流通の管理も機能しない「国家の形骸化」という惨状を呈していた。
「……中華国の特使を呼べ! とにかく国家を回し、戦争を継続するための物資と兵器を寄越すように伝えろ!」
執務室で冷や汗を流し、フーニンは血走った目で特使に縋り付いた。
だが、特使として現れた中華国の高官は、フーニンが差し出した共和国の新札を冷酷に鼻で嗤った。
「こんな明日には紙屑になるかもわからない『子供銀行券』で、我が国の物資が買えるとでも?」
フーニンが絶望に顔を歪めた、その時だった。高官は扇子で口元を隠し、蛇のような笑みを浮かべた。
「……ですが、同盟国の危機を見捨てるわけにはいきません。我が国から、必要な兵器と物資を『貸与』いたしましょう」
「貸与、だと……? 供与ではなくか?」
「ええ。利息もいただきます。返済の担保として、貴国の鉱山、港湾設備、そして関税の決定権を我が国が一時的にお預かりします」
それは事実上の『属国化』宣言だった。
弱みを見せ続ける共和国に対し、中華国はここぞとばかりに負債を膨らませ、国家の主権すらも合法的に奪い取ろうというのだ。背に腹は代えられないフーニンは、血を吐くような思いでその屈辱的な条約に署名した。
中華国が共和国を見捨てなかったのには、彼らなりの冷徹な地政学的計算があった。
もしここで共和国が完全に崩壊すれば、超大国である中華国は、オズワルド王率いる大国「王国」や厄介な辺境伯領と直接領土を接することになってしまう。それを避けるためには、共和国にある程度の『緩衝地帯』として機能してもらう必要があったのだ。
数日後。中華国は国際社会に向け、共和国との『相互安全保障条約』の締結を大々的に発表した。
それは「これ以降、共和国への軍事侵攻は、中華国への宣戦布告と見なす」という、強烈な威嚇だった。無尽蔵の支援物資と共に、中華国軍の軍事顧問団が堂々と共和国へと入り込み、あからさまに共和国のバックとして動き始めたのである。
◆
「……中華国が安保条約を結び、物資の『貸与』を始めました。フーニンは実質的に国を売り渡したことになりますね」
辺境伯領の執務室。クロードが分厚い報告書を机に置き、眼鏡を押し上げた。
「ちっ、しぶとい野郎だ。完全に超大国の操り人形になり下がりやがって。安保条約のせいで、これ以上こっちから軍事侵攻すれば、超大国を本気にさせちまうぞ」
ジークが忌々しげに舌打ちをする。
だが、クロードの顔には焦りなど微塵もなかった。むしろ、獲物が罠のさらに奥深くへと足を踏み入れたのを見るような、氷のように冷たい笑みが浮かんでいた。
「ええ。ですが、これで超大国(中華国)は、沈みかけの泥舟(共和国)に自ら太い鎖を繋いでしまったわけです」
クロードは地図上の中華国と共和国を指でなぞりながら、次なる工作の青写真を広げた。
「正面から軍を出す必要はありませんよ。さあ、ここからが本番です。奴らが『こんな不良債権、さっさと切り捨てておけばよかった』と血の涙を流して後悔するまで……徹底的にしゃぶり尽くしてやりますよ」
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