極上の罠
じわじわと、しかし確実に辺境伯領は侵食されていた。
底なしの数で押し寄せる共和国軍の前に、辺境伯軍は第二、第三の防衛陣地すらも放棄し、領地深部へと撤退を続けていた。
「ハァッ……ハァッ……! 逃がすな! 奴らも限界だ!」
「前へ! 前へ出ろ! 勝利は目前だぞ!」
督戦隊に背中を撃たれながら、飢えと疲労で限界を迎えていた共和国の歩兵たちは、狂気じみた歓喜の声を上げていた。
あの化け物じみた辺境伯軍が、背を向けて逃げている。陣地を捨て、泥に塗れながら退却していく。焦土作戦によって食料を奪われ、極限の飢餓状態にあった彼らにとって、「勝利」と「略奪」という目の前にぶら下げられた餌は、何よりも魅力的な劇薬だった。
「深追いしすぎるな! 陣形が伸び切っているぞ!」
一部の冷静な指揮官が警告を発するが、もはや暴走した軍隊を止めることは誰にもできない。30万を超える共和国軍は、逃げる辺境伯軍の背中を追って、巨大な『盆地』へと雪崩れ込んでいった。
だが、彼らは知らなかった。
血の滲むような撤退戦の最中、次男クロードの口元には、ずっと冷徹な笑みが張り付いていたことを。
「……計算通りですね。見事に誘い込まれてくれました」
盆地の最深部。ここまで「敗走」を演じ続けてきた辺境伯軍が、ピタリとその足を止めた。
「あら、時間ピッタリですわね」
長女セリアが懐中時計を取り出し、パチンと蓋を閉じる。
開戦前、彼女が王国へと根回ししていた『密約』。その指定時刻が、今まさに訪れたのだ。
プォォォォォォォォッ!!
突如として、盆地を囲む稜線から、天地を震わせるような巨大な角笛の音が鳴り響いた。
「な、なんだ!?」
驚愕して見上げる共和国軍の視線の先。盆地のすり鉢状の崖上に、太陽の光を反射して煌めく無数の軍旗が姿を現した。
「王国軍、第一陣五万! 指定座標に到達!」
「同・第二陣五万! 右翼より展開完了!」
「重装騎兵部隊、退路の封鎖を完了しました!」
完全武装を施された十万の王国軍。それが、飢えと疲労でボロボロになった共和国軍を四方から完全に包囲するように布陣していた。
「ば、馬鹿な……援軍だと!? いつからそこに……っ!」
共和国の指揮官が絶望の声を上げる。無理もない。ここ数日間の辺境伯軍の「命がけの撤退」は、全て敵をこの包囲網のど真ん中へと誘い込むための極上の餌――『釣り野伏』の戦術だったのだから。
「さあ、見下ろされるのは気分が良いか? 泥水啜ってまでよくここまで歩いてきたな」
最前線で足を止めた長男ジークが、振り返りざまに槍を構え、獰猛な笑みを浮かべる。
「ずっと逃げっぱなしで、腕がウズウズしてましたのよ」
「あははっ! 今度は私たちから行くからね!」
ルイーザとミラの大剣母娘が、背負っていた大剣を抜き放ち、戦鬼の如き殺気を爆発させる。
後方のキースは無言で両手に暗器を構え、総大将たる辺境伯レオンハルトは、王国軍の陣容を確認するようにゆっくりと頷いた。
「我が盟友たる王国軍よ、遠路ご苦労だった! 獲物はたっぷり残してあるぞ!」
レオンハルトの咆哮が戦場に轟く。
「全軍、反転攻勢! 奴らの狂気を、我々の誇りで叩き潰せ!!」
その号令が、共和国軍の終わりの合図だった。
稜線上から、王国軍が放つ何万本もの矢の雨が降り注ぎ、逃げ場を失った共和国の歩兵たちを容赦なく射抜いていく。
そして、王国軍の包囲によって完全に足が止まり「密集状態」となった敵陣のど真ん中へ、満を持して辺境伯軍の「規格外の怪物たち」が突撃を開始した。
「吹き飛べェェッ!!」
ジークの槍が一撃で数十人を薙ぎ払い、
「ごきげんよう!!」
ルイーザとミラの大剣が、防陣ごと敵を血の華へと変える。
もはや人海戦術は通じない。後ろに下がれば王国軍の重装騎兵に蹂躙され、前に出れば辺境伯一家にすり潰される。完全に袋のネズミとなった共和国軍は、督戦隊の銃口すらも意味を成さないほどの阿鼻叫喚の地獄へと突き落とされた。
圧倒的な個の武力と、それを最大限に活かす完璧な知略。そして頼もしい盟友との連携。
辺境伯領の空に、反逆の狼煙が今、最高潮の熱量をもって燃え上がったのである。
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