地獄の膠着
生き残った最後の一匹のドラゴンが、怯えきった悲鳴を上げて上空へと逃げ去っていく。
最大の脅威であった空の覇者を退けた辺境伯軍だったが、本当の地獄はここからだった。
「……チッ、竜を下げやがっさたか。だが、ここからが共和国の真骨頂というわけだ」
最前線の隘路で長槍を構えるジークが、忌々しげに舌打ちをする。
泥濘の向こうから、地響きのような鬨の声が湧き上がった。
共和国軍の次なる手は、シンプルにして最も残酷な「人海戦術」だった。動けなくなった戦車獣を放棄し、身軽になった歩兵たちが、武器を掲げて怒涛の如く押し寄せてくる。
「前へ出ろォ! 立ち止まるな! 逃げる者は共和国への反逆とみなす!」
後方から響くのは、共和国の『督戦隊』の冷酷な怒声だ。
恐怖に駆られて逃げ出そうとする自軍の歩兵を、彼らは躊躇いなく銃で背後から撃ち殺していく。前進すれば辺境伯軍の化け物たちにすり潰され、後退すれば味方に処刑される。極限の狂気と犠牲を全く厭わない国家の暴力が、押し寄せる肉の波となって隘路に殺到した。
「ハァッ……ハァッ……お母様、キリがないよ……っ!」
「ええ、流石に手が痺れてきましたわね……!」
いかに一騎当千の英雄といえど、生身の人間である以上、無尽蔵に湧いてくる数万の死兵を相手に無傷で立ち続けることは不可能だ。
死体を乗り越え、文字通り「圧殺」しようと迫る共和国軍に対し、防衛線の崩壊を悟ったルイーザが優雅に、しかし鋭く声を上げた。
「ジーク、味方の兵を連れて先に下がりなさい! ここは私たち母娘で引き受けますわ!」
「ルイーザ叔母様! しかし……!」
「いいから行きなさい! さあミラ、お別れの挨拶の時間ですわよ!」
ルイーザの言葉に、ミラが獰猛な笑みを浮かべて大剣を構え直す。
退却戦の殿――それは軍の損耗を一身に背負う最も困難で危険な任務。だが、この大剣母娘にとっては最高の舞台でもあった。
「はぁぁぁっ!」
ルイーザがドレスの裾を翻すような華麗なステップで敵陣に踏み込み、身の丈ほどの巨大な剣を一閃する。それだけで十人以上の重装歩兵がまとめて宙を舞い、血の雨となって降り注ぐ。
「あははっ! ストライクッ!」
ミラは母が吹き飛ばした隙間を縫うように突進し、フルスイングの横薙ぎで後続の兵士たちをダルマ落としのように粉砕していく。
二人の規格外の膂力から繰り出される連撃は、さながら局地的な嵐だった。
しかし、督戦隊の銃弾に背中を押された狂気の波は、すぐさまその空隙を死体で埋め尽くしてくる。
「あらあら、本当にしつこい方々。これ以上はお肌に悪いですわね」
「お母様、アレやっちゃおうよ!」
「ええ、一気に片付けますわよ!」
母娘が背中合わせに立ち、互いの大剣を天高く掲げた。
二人の筋肉が限界まで膨張し、足元の岩盤がミシミシと悲鳴を上げる。
「「――ごきげんよう!!(バイバーイ!!)」」
息の合った絶叫と共に、二本の巨大な大剣が十字を描くように両脇の崖へと叩きつけられた。
ドゴォォォォォンッ!!
鼓膜を破るような轟音と共に、隘路の切り立った崖が根元から爆ぜるようにへし折れた。無数の巨岩が雪崩のように崩れ落ち、押し寄せていた何千という共和国兵を絶叫ごと生き埋めにしていく。
完全に物理的な「岩の壁」を作り出し、敵の進軍を強引に遮断したルイーザとミラは、舞い上がる土煙の中を軽やかに跳躍し、見事に味方の最後尾へと合流を果たした。
しかし、これほどの足止めですら、共和国の狂気を完全に止めるには至らなかった。
数日後。数多の犠牲を払い、死体の山と瓦礫を力ずくで乗り越えた共和国軍は、ついに隘路を突破し、歓喜の咆哮と共に辺境伯領の一部地域へと雪崩れ込んだ。
だが、その先陣を切った指揮官は、眼前に広がる光景に絶句した。
「……な、なんだこれは。何もないぞ!?」
そこにあったはずの豊かな村々は完全に焼き払われ、一粒の麦すら残されていなかった。
次男クロードが立案した冷徹なる『焦土作戦』。
ルイーザたちが殿を務めて稼いだ時間の間に、領民を全て避難させ、家屋を焼き、井戸を埋め、敵が利用できるあらゆる物資を根こそぎ持ち去っていたのだ。
さらに、食料を現地調達できず後方からの補給に頼らざるを得なくなった敵軍の補給部隊の背後を、キース率いる暗殺部隊が執拗なゲリラ戦で削り、兵站を焼き払っていく。
勢いを失い、飢えと疲労に苦しみながらも、督戦隊の銃口に脅された共和国軍はゾンビのように浸透戦を継続する。
だが、ついに彼らの足が完全に止まる時が来た。
「……前方に、敵の陣地! 地面が……大きく掘り返されている!?」
平原に深く掘り巡らされた、どこまでも続く『塹壕』。
そこを強引に突破しようと、残存する共和国軍が再び狂気の突撃を開始した、その時だった。
タァンッ! タァンッ!!
乾いた破裂音が戦場に響き渡り、平原を駆けていた共和国の先頭集団が次々と血飛沫を上げて倒れ込んだ。
「なっ……馬鹿な!? なぜ奴らが『銃』を持っている!?」
敵将が驚愕に目を見開く。塹壕の中から突き出されていたのは、間違いなく彼らが誇る最新兵器「銃」の筒だった。
時は数日前に遡る。
遅滞戦闘の最中、暗殺部隊が補給部隊から鹵獲した数丁の銃と黒い粉(火薬)は、直ちに後方で待機する長女セリアの元へと届けられていた。
『まあ、筒の中で粉を爆発させて、その勢いで鉄の玉を飛ばすんですのね。なんて単純で、乱暴な作りかしら』
おっとりとした微笑みを浮かべながら、セリアは一晩で銃の構造と火薬の成分を完全解析。
領内の腕利き鍛冶師たちを総動員し、すぐさま量産体制を確立していたのである。
『さあ皆様、火薬の配分には気をつけて。狙う必要はありませんわ、ただ前に向かって順番に撃ち続けるだけでよろしくてよ』
前線の塹壕では、セリアの的確な指示の元、急造の銃を手にした辺境伯軍の兵士たちが、無機質に弾幕を張り続けていた。
未知の兵器を恐れたからこそ、クロードは兵の命を守るために深く堅牢な『塹壕』を構築した。
だが、共和国軍はどうだったか。
常に攻め入り、蹂躙し、兵士の命など路傍の石ほどにも思っていない彼らは、「身を隠すための塹壕を掘る」という概念すら前線には持ち合わせていなかったのだ。
平原に身を晒したまま、督戦隊に背中を押されて突撃を繰り返す共和国の歩兵たち。
彼らは、塹壕という安全圏から放たれる辺境伯軍の無慈悲な一斉射撃の前に、ただの「肉の的」と化した。バタバタと、まるで麦が刈られるように前衛が倒れ伏していく。後続が死体を乗り越えようとしても、そこに間髪入れず第二射、第三射が撃ち込まれる。
武力と知略、そして兵站と技術の適応。
督戦隊の狂気すらも、もはや塹壕という物理的な「死の谷」の前では意味を成さなかった。
何も遮るもののない平原で、共和国軍の犠牲者数は瞬く間に膨れ上がり、死体の山だけが延々と築かれていく。
ここにきて、かつてない無惨な被害と防ぎようのない銃弾の雨を前に、共和国軍の進軍は完全に停止せざるを得なくなったのである。
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