王の仕手戦
王都に平穏が戻る一方で、新たな「戦場」が熱を帯び始めていた。
新王オズワルドが主導して開設した、穀物の『先物取引市場』である。
「――先物市場を通じた自由競争こそが、将来的な価格を可視化し、農家の不安を取り除き、王都への安定供給の礎となる。……私の理論は、決して間違ってはいないはずなのですがね。」
執務室で、オズワルドは山積みの市場報告書を見つめながら眉間を揉みほぐした。
王の経済理論は、確かに正しかった。しかし現実の市場では現在、麦の価格が異常な乱高下を繰り返し、下町のパンの値段までが日に日に変わるという混乱が起きていたのである。
「理論は正しくとも、人間の『強欲』が計算外だったってことでしょうな」
ソファに腰掛けた王都奉行キンズリーが、苦々しく吐き捨てる。
「裏で莫大な資金を使って、意図的に相場を操縦(仕手戦)している輩がいます。大元の札差ども……特に、王都最大の穀物問屋であるコーネリアスの野郎が怪しいんですが、尻尾を掴ませねえ」
「ええ。ですが、奴らは私の『風鴉(密偵)』の顔を警戒しきっている。……そこで、今回は少し毛色の違う者を呼び寄せました」
オズワルドが指を鳴らすと、執務室の天井の梁から、音もなく黒装束の男が舞い降りた。
キンズリーがハッとして腰の刀に手をかける。奉行である彼すら、直前まで全く気配を感じ取れなかったのだ。
「お呼びにより、参上いたしました」
男の名は、ハンス・ハトリー。
はるか東方の国で最強と謳われた影の暗殺集団『シノビ(忍び)』の血を引く末裔であり、王都の裏社会でも一切顔の割れていない、純粋な潜入工作の達人である。
「ハンス。コーネリアスの屋敷の奥底……彼らの相場操縦の確固たる『証拠』は手に入りましたか?」
「御意。奴らが徒党を組んで相場を操り、莫大な不当利益を得ている裏帳簿。しかと、ここに」
ハンスが懐から分厚い帳簿を取り出し、オズワルドの机に置く。厳重な金庫の奥底に隠されていたはずのそれは、シノビの神業によって誰にも気づかれずに抜き取られていたのだ。
「見事です。下がって休みなさい」
「はっ」
ハンスは一礼すると、再び音もなく影の中へ溶けて消えた。
裏帳簿をペラペラと捲りながら、キンズリーが獰猛に笑う。
「こいつぁいい。決定的な証拠だ。これで明日には、コーネリアスの野郎をお白州に引きずり出して、首を刎ねてやれますぜ、陛下」
だが、オズワルドはゆっくりと帳簿を閉じ、不敵に……否、ひどく冷酷に口角を上げた。
「……いえ。キンズリー閣下、法での裁きは不要です」
「は?」
「経済という武器を使って王都を混乱に陥れた者には、相応の死に場所を与えなければ。……目には目を、歯には歯を、です」
オズワルドの瞳の奥で、絶対者の覇気が鈍く光った。
数日後の、先物取引市場。
立会場は異様な熱気に包まれていた。
「いいぞ! 麦の価格がどんどん上がっている! まだだ、もっと買い集めろ!」
貴賓席から市場を見下ろし、大物札差のコーネリアスは下品な笑い声を上げていた。
彼は仲間と共に莫大な資金で麦の『買い』ポジションを独占し、意図的に価格を吊り上げていた。このまま価格が頂点に達した瞬間に全てを売り抜け、天文学的な利益を得る計画だった。
しかし、その時である。
『――う、売りだ! 大量の売り注文が出たぞ!!』
『なんだこの桁は!? 市場の買い注文が、全て飲み込まれていく!!』
立会場から悲鳴のような声が上がった。
「なっ、何事だ!?」
コーネリアスが身を乗り出した瞬間、掲示板の価格が、滝のように暴落し始めた。
王室が密かに備蓄していた天文学的な量の現物と資金を、一気に市場へ放出したのである。圧倒的な『売り浴びせ』。
「ば、馬鹿な! こんな莫大な量の麦、どこから……っ! まさか、王室か!? あの若造が、自ら相場に介入してきたというのか!」
価格を吊り上げるために限界まで借金をして『買い』に回っていたコーネリアスにとって、相場の暴落は即ち『死』を意味する。
彼の資産価値はみるみるうちに目減りし、借金だけが雪だるま式に膨れ上がっていく。
「や、やめろ……っ! 買い支えろ! 私の資産が……財産が、全て消えてしまう!!」
コーネリアスの絶叫も虚しく、市場の価格は大暴落の末に底を打った。
新王が仕掛けた、国家予算規模の罠。相場を操っていたつもりの悪徳札差は、たった数時間で完全に自己破産に追い込まれたのである。
その夜。
全てを失い、莫大な負債を抱えて呆然自失となっていたコーネリアスは、密かに王城の一室へ呼び出されていた。
「……殺せ。私を、法で裁いて殺すがいい」
目の死んだコーネリアスが、玉座に座るオズワルドを見上げて力なく呟く。
「法で裁くつもりなら、最初からそうしていますよ」
オズワルドは立ち上がり、コーネリアスの前へ歩み寄った。
「コーネリアス。お前のやり方は下劣でしたが、市場を読む目と商才、そして度胸は並の商人にはないものだった。……このまま腐らせるには、少し惜しい」
「……なに?」
オズワルドは、冷たくも威厳に満ちた声で提案した。
「命と引き換えに、私の『御用商人』になりなさい。お前の商才を、私欲のためではなく、王都の経済を豊かにし、市場を正しく回すために使うと誓うなら……お前の負債を王室で肩代わりし、再起のチャンス(資金)を与えましょう」
底知れぬ恐怖のどん底に叩き落としておいてから、蜘蛛の糸を垂らす。
そのあまりにも苛烈で、計算し尽くされた王の器の大きさに、コーネリアスは全身の震えが止まらなかった。
この青年王には、一生かかっても絶対に敵わない。そう魂に刻み込まれたのだ。
「……っ! は、ははぁっ!! このコーネリアス、身も心も、国王陛下のために粉骨砕身働くことを誓います……!!」
床に額を擦りつけ、涙を流しながら忠誠を誓うコーネリアス。
オズワルドは満足そうに微笑み、その肩を剣のヒラで軽く叩いた。
これが、後に王都の物流と金融を民の立場で調整し、国の発展に多大な貢献を果たすことになる巨大企業――『コーネリアス財閥』が産声を上げた、記念すべき夜の出来事である。
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