漫遊は辺境伯領へと
王都を離れ、気ままな諸国漫遊の旅を続けていたミッチェル大公と、二人の護衛サイラス、クラークの一行。
秋も深まり、彼らが足を運んだのは、王国最北に位置する厳しくも美しい自然に囲まれた地――レオンハルト辺境伯の領地であった。
「はっはっは! ミッチェル殿下、よくぞおいでくだされた!」
領主の館で彼らを歓待したのは、相変わらず熊のように巨大で無骨なレオンハルト辺境伯と、その傍らで赤ん坊を優しく抱く、美しい奥方(ルイーザの姉である公爵長女)だった。
冷涼な辺境の気候とは裏腹に、館の中はどこまでも温かい空気に満ちていた。
「いやはや、見事な赤子ですな。レオンハルト殿に似て、将来は立派な武人になるでしょう」
ミッチェルが目を細めると、レオンハルトは豪快に笑いながらも、妻の肩をそっと抱き寄せる。
「武人でも学者でも、妻の産んでくれたこの子が望む道を進ませるつもりです。……なあ、愛しの妻よ」
「ええ、あなた。ふふっ、本当に可愛いですわね」
互いに見つめ合い、新婚当初と全く変わらない――いや、それ以上の熱々ぶりを見せつける辺境伯夫婦。
そこへ、「ちょっと待たんかレオンハルト! わしの孫を独占するでない!」と、王都の執務を全て放り投げて辺境へ移住してきた元・暫定統治者のグランチェスター公爵が、満面のデレデレ顔で乱入してくる。
「おお、よちよち。じぃじでちゅよー」
あの厳格だった名君の見る影もない好々爺ぶりに、ミッチェル大公は「……平和とは、人を変えるものですな」と、サイラスたちと顔を見合わせて大笑いした。
辺境伯邸で楽しい時間を過ごした後、ミッチェル大公一行は村外れにある一軒の農家を訪ねた。
そこは、かつて王都の闇を震え上がらせた最強の部隊『王都撃滅隊』の元隊長と元副長が暮らす家である。
「そぉーれっ! 抜けましたわ、キース!」
「はははっ、さすがルイーザ。俺の奥さんは世界一力持ちだな」
「もうっ! またそうやってからかうんですから!」
畑の方から、楽しげな声が聞こえてくる。
そこには、泥だらけの農作業着姿で、顔にまで土をつけながら立派な大根を掲げるルイーザと、同じく泥にまみれながら彼女を愛おしそうに見つめるキースの姿があった。
「おや。王都の化け物と恐れられたお二人も、すっかり土の匂いが似合うようになりましたな」
ミッチェルが声をかけると、二人は驚いて振り返り、そして満面の笑みで一行を迎えてくれた。
「ミッチェル殿下! よくぞいらっしゃいました!」
その夜。
キースとルイーザの小さな家の食卓には、温かくも豪華な手料理が並んだ。
「キースが今朝、山で仕留めてきた野兎の香草焼きですわ。それと、この野菜のスープは……わたくしが一生懸命、切って煮込みましたのよ!」
ルイーザが誇らしげに胸を張る。その指先には、包丁で不器用に切ってしまった小さな絆創膏がいくつか貼られていた。
「俺は味付けをしただけですよ。ルイーザは最近、料理の腕がめきめき上がってましてね。世界で一番美味いスープです」
キースがルイーザの頭をポンと撫でると、彼女は「えへへ……」と顔を真っ赤にして照れ笑いした。
(……なんとまあ、当てられっぱなしの旅だ)
ミッチェル大公は、出された兎のローストと熱々のスープを口に運んだ。
キースの仕込みが完璧な野兎の肉は柔らかく臭みもなく、ルイーザが不揃いに切った野菜がたっぷり入ったスープは、心が芯から温まるような優しい味がした。
「美味い。一流の料理人が作った王城の晩餐よりも、ずっと美味い」
「本当ですか! よかったぁ……」
「光栄です、殿下」
王都の地下で血にまみれていた凄腕の暗殺者と、大剣を振り回していた令嬢。
かつての凄絶な面影はどこにもなく、そこにはただ、互いを深く愛し合い、日々の小さな幸せを慈しむ、平凡で温かい新婚夫婦の姿だけがあった。
翌朝。
ミッチェル大公一行は、次の目的地へ向けて出立の準備を整えていた。
「短い時間でしたが、本当に楽しかったですわ! 道中、お気をつけて」
ルイーザとキースが、家の前で手を振って見送る。
「うむ。素晴らしい馳走であった。……ところで」
ミッチェルは馬車に乗り込む前、ふと視線を森の奥へ向けた。
「昨晩から、あそこの木陰に殺気を漏らしている『鼠』どもが隠れているようだが。……お前たちが気づいていないわけはなかろう?」
隠れているのは、十数人。その気配から察するに、かつて王都撃滅隊に組織を潰され、キースたちを逆恨みして辺境まで追ってきた盗賊団の生き残りたちである。
だが、キースは困ったように頭を掻いた。
「ああ、連中なら数日前からいますよ。一応気づいてはいるんですが……ルイーザが『せっかくの平和な生活に血の匂いを持ち込みたくない』って言うもので」
「あんなの、キースがデコピンしただけで吹き飛びますわ。畑を荒らさない限りは、勝手にさせておこうかと」
ルイーザも呑気に笑っている。
かつての敵対組織の残党からの命を狙った殺気すら、今の彼らからすれば「少し羽音のうるさい蚊」程度の認識でしかなかったのだ。
「はっはっは、なるほど! さすがは元撃滅隊、肝の据わり方が違う!」
ミッチェル大公は豪快に笑うと、背後の護衛たちに目配せをした。
「……だが。幸せな新婚の門出に、いつまでも虫が湧いているのは無粋というものだ。サイラス、クラーク。少し掃除をしてきなさい」
「「はっ!」」
「え? 殿下、わざわざそんな……」
ルイーザが止める間もなく。二人の護衛は森の中へ風のように消え――わずか十秒後。
「ぎゃあっ!」「あべっ!」という情けない悲鳴が響き渡り、森の奥からドサドサッと、縄で一つに縛り上げられた盗賊たちが放り出されてきた。
「無事、制圧完了いたしました。村の自警団に引き渡しておきます」
涼しい顔で戻ってきたサイラスとクラークに、キースは呆れたように苦笑した。
「いやはや、お手数をおかけしましたね」
「気にするな。美味い野菜と兎料理をご馳走になった、ほんの礼代わりだ」
ミッチェル大公は朗らかに笑い、馬車の扉を閉めた。
「末長くお幸せに、お二人とも!」
「はいっ! 殿下たちも、良い旅を!」
朝日に照らされる美しい辺境の景色と、仲睦まじく寄り添い合って手を振るキースとルイーザの姿。
心温まる光景に深い満足感を覚えながら、ご隠居大公の馬車は、また次なる旅へとゆっくりと進んでいくのだった。
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