盲目の仕置
王都の片隅にある、ヴァレリアンの診療所。
その奥の部屋で、数年ぶりの再会を果たした兄と妹は、言葉にならない嗚咽を漏らして抱き合っていた。
「お兄ちゃん……っ、お兄ちゃん……っ!」
「サチ……よく、無事で……」
ドン・ジェリコの計らいにより、一切の傷を負うことなく解放された妹のサチ。イチは盲目の瞳から大粒の涙をこぼし、妹の小さな背中を何度も、何度も撫でていた。
その光景を部屋の入り口で見守っていたヴァレリアンは、ふっと息を吐き、無粋な邪魔をしないようにそっと扉を閉めようとした。
「――ヴァレリアン先生」
不意に、イチの声が響いた。
サチを落ち着かせ、布団に寝かしつけたイチが、静かに立ち上がってヴァレリアンの方へ向き直ったのだ。
「妹を救っていただいたこのご恩、一生忘れません。……ですが、手前にはもう一つ、やらねばならねえことがごぜえます」
「……」
「ジェリコの旦那から依頼されたという『香具師』の仕置……。どうか、手前も一緒に行かせてくだせえ。妹を騙し、地獄へ突き落とそうとした外道……この手で、引導を渡してやりてえのです」
妹を想う兄としての、当然の怒り。
だが、ヴァレリアンは眉をひそめて首を振った。
「気持ちは痛いほど分かるがね。殺しってのは、熱くなった頭でやるもんじゃねえ。ましてや、目の見えないあんたにゃ、ちと荷が……」
『重すぎるぜ』と、続けようとした。
闇夜に紛れての暗殺は、ただの剣の立ち合いとはわけが違うからだ。
しかし――ヴァレリアンは、その言葉を最後まで紡ぐことができなかった。
「…………ッ」
空気が、凍りついた。
イチの全身から、底知れぬ深淵のような、おぞましいほどの『殺気』が静かに吹き上がったのだ。
それは暴発するような怒りではない。どこまでも冷たく、研ぎ澄まされ、触れた者から命を刈り取っていく死神の鎌のような、純度の高い殺意。
(……なんだ、この殺気は。息が、詰まる……!)
数え切れないほどの修羅場をくぐり抜け、自身も無数の命を奪ってきた最強の仕置人であるヴァレリアンが、たった一人の按摩から放たれた気に、無意識のうちに後ずさりしそうになっていた。
「……足手まといには、なりませんぜ」
イチの低い声に、ヴァレリアンは額に浮かんだ冷や汗を拭い、短く息を吐いた。
「……勝手にしろ。ただし、しくじったら俺が横から針を刺すぜ」
「へえ。……ありがてえことで」
殺気をスッと消し、いつもの柔和な按摩の顔に戻ったイチの姿に、ヴァレリアンは内心で舌を巻きながら、夜の闇へと歩き出した。
その夜。
王都の場末にある安宿の一室で、流れの香具師である男は、女を売り飛ばして得た金を数えながら下劣な笑いを浮かべていた。
「へっへっへ。あの田舎娘、いい金になったぜ。次はどの町の女を狙うとするか……」
「――次は、地獄の閻魔でも騙してみるんでごぜえますな」
「なっ!?」
不意に部屋の隅から聞こえた声に、香具師が飛び上がる。
いつの間にか、窓から侵入したヴァレリアンとイチが、音もなく部屋の中に立っていた。
「だ、誰だテメエら! ここをどこだと……」
香具師が慌てて枕元の護身用の短刀へ手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
イチが、仕込み杖の柄に手をかけた。
抜刀の気配すら、なかった。
――チィンッ!!
微かに金属が擦れるような、甲高い音が響いた。
ヴァレリアンの目にも、刃の軌跡は完全には追えなかった。ただ、部屋の空気が一瞬だけ真横にズレたような錯覚に陥っただけだ。
「あ……え……?」
香具師は短刀に手を伸ばした体勢のまま、首から血しぶきを上げることもなく、ただ糸が切れたようにドサリと畳の上に崩れ落ちた。
完全に急所である頸動脈と喉笛だけを、紙一重の深さで、断ち切ったのだ。
「……仕置、完了いたしやした」
イチが仕込み杖をカチンと納める。
その刃には、一滴の血糊すらついていなかった。あまりにも速く、鋭い斬撃は、血を拭う手間すら必要としなかった。
「…………」
無言で事切れた香具師を見下ろしながら、ヴァレリアンは自身の懐に入れていた針から、静かに手を離した。
(……見事な手際だ。だが)
ヴァレリアンが心底驚愕していたのは、イチの放った神速の居合の凄まじさに対してではなかった。
(俺ほどの男が……仕置を生業にしてきたこの俺が。あの時、あの按摩が放った『殺気』に、一瞬でも気圧されちまったとはな……)
背中を伝う、冷たい汗の感触。
それは、恐怖というよりも、自分と同じかそれ以上の闇を抱えた『本物』と出会ってしまったことへの、抗いようのない戦慄だった。
「……帰るぞ、イチ。妹さんが待ってる」
「へえ。色々と、お世話になりやした」
深く頭を下げる盲目の剣客。
この王都には、まだまだ底知れない深淵が潜んでいる。ヴァレリアンは夜空に浮かぶ冷たい月を見上げながら、自分も決してうかうかしてはいられないと、静かに気を引き締めるのだった。
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