王都の噂話の中心
「……まあ、そんなことがありやしてね」
王都下町の、場末の居酒屋。
煤けた天井の下、薄暗い小上がりで、闇医者のヴァレリアンは熱燗の猪口を傾けながら、先日遭遇した『盲目の按摩・イチ』の神速の居合について語り終えた。
「十人のならず者を、瞬きする間に峰打ちならぬ『浅手』で制圧した、と。……それはまた、規格外の腕前ですね」
向かいに座る素浪人――お忍びで下町に下りてきている新王オズワルドが、興味深げに目を輝かせる。その横では、細工職人のユーゴが無言で焼き鳥を齧っていた。
「ああ。俺たちも裏稼業が長ぇが、あんな凄まじい剣の腕を持つ按摩なんて、見たことも聞いたこともねえ。……香具師どもより道端の石ころの方が怖いと言い捨てたあの男の凄み、オズの旦那にも見せてやりたかったぜ」
「ふふっ。そんな逸材が、まだ王都に隠れていたとは。世の中は本当に広い」
オズワルドは愉快そうに笑い、手元の杯を干した。
「……しかし、それほどの腕を持つ者が、なぜ流しの按摩などしているのか。少し気になりますね」
オズワルドが視線を軽く虚空へ向けると、居酒屋の屋根裏に潜んでいるであろう密偵(風鴉のランスたち)に向けて、小さく呟いた。
「……念のため、彼らに少し見張らせておくことにしましょう。善人であれば良し、もし王都の平穏を脅かすようなら、対処が必要ですからね」
「違いねえ」
ヴァレリアンが同調して猪口を差し出すと、オズワルドは楽しそうに酒を注ぎ返し、彼らの会話は「最近の麦の相場」や「下町の美味い飯屋」といった、他愛のない世間話へと変わっていった。
隠居屋敷の祝杯と、案じる新妻
その頃。
王都の喧騒から少し離れた、アッシュ道場の奥にある老剣客コリンの隠居所でも、静かな酒宴が開かれていた。
「いやぁ、今日は新婚の祝いを持ってきたぜ」
ふらりと訪ねてきたのは、王都奉行のキンズリーだった。
彼は上等な清酒の樽をドカッと土間に置き、コリンと向かい合ってあぐらをかいていた。
コリンとクロエは、息子のディランと数人の親しい知人だけを呼び、身内だけのささやかな祝言を近々挙げることになっていた。そのケジメの報告を受けたキンズリーが、いてもたってもいられず祝いに駆けつけたのだ。
「奉行閣下、わざわざかたじけない。……いやはや、この歳になって祝言など、気恥ずかしいものですがな」
コリンは好々爺のように照れ笑いを浮かべ、キンズリーの注ぐ酒を美味そうに啜った。
「いいじゃねえか。男が惚れた女を囲うのに、歳なんて関係ねえさ」
キンズリーがニヤリと笑う。そして杯を数杯空けた後、彼はふと、奉行としての鋭い顔つきを見せた。
「……ところで、コリンの爺さん。最近、下町を流して歩いている『盲目の按摩』の噂、知ってるかい?」
「ほう。按摩、ですか」
「ああ。イチって名乗ってるらしいが……奉行所の密偵(奉行所独自の探索方)の報告によると、ただの按摩じゃねえ。とんでもねえ仕込み杖の使い手らしい」
キンズリーは顎を撫で、厄介そうに息を吐いた。
「今のところ悪さはしてねえが、もしあんな規格外の化け物が悪党の用心棒にでも回ったら、俺や奉行所の連中じゃ、とてもじゃねえが手がつけられねえ」
キンズリーは真剣な眼差しで、目の前でお茶受けの豆をつまんでいる小柄な老人を見据えた。
「……もしそいつが牙を剥いた時、王都で真っ向から止められるのは、あんたか、息子のディラン殿くらいのもんだ」
その言葉に、コリンは「ふぉっふぉ」と呑気に笑った。
「買い被りすぎですぞ。私はもう、隠居したしがない年寄りですからな。……ですが、もし……必要があるなら呼んでくだされ」
「おっと、頼もしいねぇ」
キンズリーが安堵の笑みを浮かべた、その時だった。
「――コリン様! やめてくださいよ、無茶なことは!」
襖が勢いよく開き、おつまみの煮物を乗せたお盆を持ったクロエが、涙ぐんだ目でコリンを睨みつけていた。
「もう……! コリン様は私のお婿様になるんですから、危ないことなんて絶対に駄目です! もしコリン様に万が一のことがあったら、私もッ…!」
半泣きで怒る可愛らしい新妻の姿に、キンズリーは「こいつはご馳走様だ」とばかりに肩を揺らして笑いを噛み殺した。
「わ、わかっているよ、クロエ。無理はしない、冗談だよ」
コリンは慌ててクロエの小さな手を握り、宥めるように優しく微笑んだ。
「私はお前を置いて、死に急ぐような真似は絶対にしない。約束するよ」
「……本当ですね?」
「ああ、本当だとも」
コリンがクロエの頭をポンポンと撫でると、彼女は安心したように顔を赤くし、「……お酒のおかわり、お持ちしますね」と嬉しそうに小走りで台所へと戻っていった。
「……いやはや、ごちそうさま。最高のアテを見せてもらったぜ」
キンズリーが意地悪く笑いながら杯を干す。
コリンは「お恥ずかしいところを」と頭を掻きながら、自身も美味そうに酒を煽った。
王都の平和を影で支える、新王や闇の仕置人たち。
そして、法の光を守る奉行と、愛する者を得て再び剣の柄を握る理由を見つけた老剣客。
それぞれの場所で、それぞれの想いを胸に、王都の夜は静かに更けていくのだった。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




