凄腕の按摩
王都に平穏が訪れ、活気を取り戻した下町。最近、この界隈でとある『流しの按摩(マッサージ師)』が評判を呼んでいた。
五十がらみの、くたびれた着流しに身を包んだ盲目の男である。
杖をつきながら「按摩、上下〜」と独特のゆったりとした声で町を流すその男は、ひどく腕が良く、揉んでもらうと長年の肩こりや腰の痛みが嘘のように消えると専らの噂だった。
「ほう。それは医者として、少し気になるな」
表向きは大柄な町医者、裏の顔は凄腕の仕置人(暗殺者)であるヴァレリアンは、往診の帰りにその盲目の男を路地で見かけ、思わず声をかけた。
「お前さん。ちょっと、私の肩も一つ揉んでくれないか?」
「へえ、へえ。ありがてえことでごぜえます」
盲目の男は快く引き受け、道端の床几に腰掛けたヴァレリアンの肩に、ごつごつとした大きな手を置いた。
「……ほう」
揉まれ始めた瞬間、ヴァレリアンは僅かに目を細めた。
ただの力任せではない。人体の経絡、筋肉の構造、骨の髄までを完全に把握しきった、恐るべき指の運び。医者であるヴァレリアンですら舌を巻くほどの、まさしく神業とも言える按摩の腕前だった。
それだけではない。
その指先から伝わってくる、微かな、しかし決定的な『ある感触』に、ヴァレリアンの背筋に冷たい汗が伝った。
「……なかなかの腕前だな。おかげで身体が軽くなった」
「へえ、お粗末様でごぜえます」
ヴァレリアンは懐から代金を取り出し、多めに男の手に握らせた。
「名は何と言うんだ?」
「へえ。手前、イチと申します」
イチは愛想よく笑い、深く頭を下げると、再び杖を突きながら「按摩〜」と路地の奥へ消えていった。
ヴァレリアンはその後ろ姿を、いつまでも鋭い眼差しで見つめていた。
その日の夜。
ヴァレリアンの診療所の奥の土間で、親友であり相棒の細工職人・ユーゴが、七輪に乗った鍋をつついていた。
「……へえ。で、そのイチって盲人の按摩が、なかなかのものだったと」
ユーゴが面白そうに酒を啜る。
「ああ。医者の俺が言うんだ、間違いない」
「按摩の腕かね。あんたもうかうかしてると、表の客をとられっちまうね」
からかうように笑うユーゴに対し、ヴァレリアンは少しも笑わず、真顔で猪口を置いた。
「笑い事じゃねえ、あんたもだぜ、ユーゴ」
そのドスの効いた声に、ユーゴの笑みがスッと消える。
ヴァレリアンは七輪の火を見つめながら、低く呟いた。
「按摩の腕だけじゃねえ。……あの男、アッチ(殺し)もすげえ腕だ。あの手は、ただの揉み療治の手じゃねえ。何百、何千という人間を斬ってきた、凄まじい剣客の手だった」
もしあのイチという男が、按摩のふりをして自分の首の骨を折ろうとしていたら。ヴァレリアンでさえ、防げたかどうか怪しい。それほどの底知れぬ気配だった。
「……世の中は広いね。新しく玉座に座った上様といい、あのイチといい……あんな化け物が、ウヨウヨしてらぁ」
「違いない」
ユーゴも短く同意し、静かに杯を干した。
裏社会で最強を自負していた彼らでさえ、この王都に集う規格外の達人たちには冷や汗をかかされる。だが、それが不思議と心地よくもあった。
「……大根が煮えたぜ」
ヴァレリアンが鍋の蓋を取ると、出汁の染み込んだ熱い大根の香りが、ふわりと土間に広がった。
器に盛られた大根をフーフーと吹きながら口に運び、ヴァレリアンは窓の外で鳴る秋の虫の音を聞きながら、相棒へ優しく言った。
「今日は泊まって行きなよ。……夜風が冷えるからね」
「ああ、そうさせてもらうぜ」
凄腕の仕置人二人は、冷え込む王都の夜を、温かい大根の煮物をつまみに呑みながら共に静かに過ごした。
それから数日後のこと。
往診に向かっていたヴァレリアンは、廃屋の立ち並ぶ裏通りで、十人ほどの柄の悪いならず者たちが、一人の男を取り囲んでいるのを発見した。
「おい盲! テメエ、昨日賭場でイカサマしやがったな! 勝った金、全部置いていきな!」
「へえ……嫌だと言ったら、どうなさるおつもりで?」
囲まれていたのは、あの盲目の按摩・イチだった。
ならず者たちが一斉にドスや刃物を抜き、イチにジリジリと歩み寄る。
(……数の暴力か。手助けしてやるか)
ヴァレリアンが懐の医療用針に手を伸ばし、影から飛び出そうとした、その時だった。
「――おっと。そこのお方、手助けには及びませんぜ」
イチが、見えてもいないはずのヴァレリアンのいる方向へ顔を向け、飄々とした声で言った。
ヴァレリアンがハッとして足を止める。
「こんな奴ら……道端の石ころの方が、よっぽど私達盲人には手強いですぜ」
「舐めやがって! 死ねぇっ!!」
激昂したならず者の一人が、イチの背後から斬りかかった。
次の瞬間。
イチが突いていた杖――その中に仕込まれていた『仕込み杖(直刀)』が、独特の逆手持ちの低い構えから、文字通り「目にも留まらぬ」神速で引き抜かれた。
――ピカッ!!
真昼の裏路地に、雷光のような剣閃が走った。
「あがっ!」「ひぃっ!」
カチン、と。
イチが刀を杖の鞘に納めた時には、すでに勝負はついていた。
十人いたはずのならず者たちは、誰一人としてまともに立ち上がることができず、手首や膝を浅く、しかし致命的に斬り裂かれて地面を転げ回っていたのだ。
一切の無駄がない、神の如き居合斬り。
ヴァレリアンが予感した通り、彼は按摩の腕以上に、剣の腕が桁外れであった。
「……お騒がせいたしました。では、手前はこれで」
イチは血糊一つついていない杖を突き直し、驚愕して立ち尽くすヴァレリアンの方へ向かって、静かに、そして深く一礼をした。
「按摩、上下〜……」
独特の呼び声を響かせながら、盲目の剣客は、王都の喧騒の中へとゆっくり消えていく。
そのうらぶれた、しかしどこまでも恐ろしい男の背中を、ヴァレリアンはただ無言で、感嘆の息を漏らしながら見送るのだった。
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