救われた小鳥
グランチェスター公爵家の剣術指南役を退き、息子のディランに道場を譲った老剣客、コリン・アッシュ。
彼の隠居生活は、実に穏やかで満ち足りたものだった。
朝は早起きして近くの神社へお参りに行き、昼は昔の知り合いの家で茶を啜り、夕方は息子の道場へ顔を出して門下生たちの稽古をニコニコと眺める。剣の道を極め、妻に先立たれて久しい彼にとって、この波風の立たない平穏な日々こそが至福であった。
だが、王都の闇が完全に消え去ったわけではない。
ある日の昼下がり、散歩の途中で通りかかった下町の裏路地で、コリンはふと足を止めた。
「嫌っ、離して! 助けて!」
「大人しくしろ! お前の親父が作った借金のカタなんだよ!」
人相の悪い大柄な男が、年若い娘の腕を無理やり引っ張って連れ去ろうとしていた。娘はまだ十五、六といったところで、粗末な服を着ているが、目鼻立ちの可愛らしい少女だった。
「――何をしておる!」
コリンは静かに、しかし腹の底から響くような声で一喝した。
その小柄な老人の澄み切った双眸に見据えられ、悪漢はビクリと肩を揺らしたが、すぐに凄んで見せた。
「なんだジジイ、引っ込んでろ! この女は、借金のカタに親から正当に預かったんだ。他人が口を出すな!」
「ほう。正当、とな?」
コリンは好々爺のようにふわりと微笑みながら、男との距離をスッと詰めた。
「お主、モグリの業者だな? 新王オズワルド陛下が発布された新たな法では、『借金のカタに人間を売買すること』は固く禁じられている。……どうだ? 一緒に王都奉行所へ行って、キンズリー閣下の前でどちらが正しいか、白黒つけようではないか」
「なっ……!」
新王の法と、容赦がないことで有名な王都奉行の名前を出され、男は露骨に狼狽した。さらに、目の前の小柄な老人から発せられる、見えない刃のような『達人の覇気』に本能的な恐怖を覚えた。
「ち、チィッ! 覚えてろよジジイ!」
男は娘の腕を乱暴に振り払い、捨て台詞を吐いて逃げていった。
「怪我はなかったかね、お嬢さん」
「は、はい……。ありがとうございます、おじいさま」
娘はクロエと名乗った。
事情を聞けば、ギャンブル狂いの父親に身売りされ、逃げ出したところを捕まったのだという。親に売られた以上、実家に戻すわけにもいかない。
「仕方がない。これからどうするか、我が家でお茶でも飲みながら考えようか」
コリンはクロエを連れ、道場の敷地の奥にある、自身のこぢんまりとした隠居所へと戻ってきた。
だが、門をくぐろうとしたその時。コリンの研ぎ澄まされた感覚が、家の周囲を取り囲む『複数の気配』を察知した。
(……やれやれ。先ほどの男が、仲間を連れて先回りしていたか)
ざっと見積もって、十人はいる。丸腰の老人と少女を痛めつけ、クロエを奪い返すつもりだろう。
コリンは歩みを止めると、隣で不安そうにしているクロエへ、いつもの温和な笑みを向けた。
「クロエ君。先に入って、居間でお茶の用意をして待っていてくれないか。私は……少しだけ用事を済ませてくるから」
「えっ? でも……」
「大丈夫。すぐに終わるよ」
クロエを家の中へ押し込み、戸を閉める。
直後、隠居所の周囲の生垣から、得物を構えたゴロツキどもが一斉に姿を現した。
「ヒッヒッヒ、逃げられねえぜジジイ! 俺たちの商品を横取りした代償、たっぷり払ってもらおうか!」
下品に笑う男たちに対し、コリンは庭先に立てかけてあった『竹箒』を手に取り、ふぅ、と息を吐いた。
「怪我をしたくなければ、今すぐ立ち去りなさい。」
「寝言は寝て言え! 殺せ!」
数人の男が、刃物を振りかぶってコリンへと殺到する。
――シュッ!
風が鳴った。
次の瞬間、「あばっ!」「げふっ!」というくぐもった悲鳴が連続して上がり、男たちが次々と白目を剥いて地面に崩れ落ちた。
「……な、なにぃ!?」
残ったゴロツキたちが驚愕に目を見開く。
コリンは竹箒の柄を使い、一切の力みなく、流水のごとき足捌きで男たちの攻撃を躱し、同時に彼らの顎や鳩尾といった急所を正確に突いていたのだ。
達人の剣技の前ではチンピラなど赤子も同然、
「ば、化け物……っ!」
「だから、立ち去れと言ったのだ。……それに、あまり騒ぐと、近所をパトロールしている王都奉行所の役人たちが駆けつけてしまうぞ。キンズリー奉行は、私の『茶飲み友達』でね」
コリンが竹箒を肩に担ぎ、澄み切った双眸で冷ややかに見据える。
ただならぬ強さと、王都奉行との直接の繋がり。完全に心が折れたゴロツキどもは、気絶した仲間を引きずりながら、悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
「お待たせしたね、クロエ君」
コリンが居間に入ると、クロエが淹れてくれた温かいお茶の香りが部屋に漂っていた。
「おじいさま……外で何だか物音がしましたが……」
「ああ、野良犬が騒いでいたから、箒で少し追い払っただけだよ」
コリンはニコニコと笑いながら座布団に腰を下ろし、お茶を一口すすった。
「うむ、美味しいお茶だ。……さて。これからのお主の身の振り方だが。キンズリー奉行に掛け合って、どこか真っ当な働き口を斡旋してもらおうと思うのだが、どうだろうか?」
コリンが優しく尋ねると、クロエはモジモジと手を揉み合わせ、やがて意を決したように顔を上げた。
「あ、あの……! もし、もしよろしければ……私に、コリン様のお世話をさせていただけないでしょうか!」
「おや?」
「このご恩は、一生かけても返しきれません! 私、お掃除もお洗濯もお料理も得意です! ですから……ここに住み込みで、一緒に暮らさせていただくわけにはいかないでしょうか……っ!」
必死に頭を下げるクロエ。
妻に先立たれ、道場を息子に譲って以来、この隠居所で一人暮らしをしているコリンである。
枯れ切った彼にとっては、若い娘との同居に下心などあるはずもない。むしろ、よく気の利く働き手が増えるのはありがたいことだった。
「ふむ。私としては、一向に構わないが……。こんな年寄りの世話をするのは退屈しないかね?」
「し、しませんっ! ぜひ、よろしくお願いいたします!」
「そうか。では、今日からよろしく頼むよ、クロエ君」
コリンが好々爺の柔和な笑みを向ける。
すると、どうしたことだろうか。
クロエは、「はいっ!」と元気に返事をした後、なぜか頬を真っ赤に染め、両手で顔を覆って俯いてしまったのである。
(……あの男たちから助け出してくれた時の、あの低くて力強いお声。それに、澄み切ったお優しい瞳……っ。コリン様、おじいさまだけど、すっごく素敵……!)
十六歳の少女の胸に芽生えた、初老の達人への密かな憧れと、ほのかな恋心。
そんな彼女の乙女心など全く気づいていないコリンは、「ふむ??」と呑気に首を傾げ、美味しいお茶のおかわりを啜るのだった。
最強の老剣客の穏やかな隠居生活は、可愛らしい小鳥のような同居人を迎え、少しだけ賑やかに、そして華やかに色づき始めていくのである。
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