堕ちた聖女のロザリオ
王都の最下層に位置する、法も光も届かない薄暗い私娼窟。
かつて前王太子をたぶらかし、偽聖女として権勢を振るった末にこの地獄へ売り飛ばされた男爵令嬢マリアンヌは、持ち前の底意地の悪さと雑草のようなしぶとさで、泥水の中を生き抜いていた。
往年の可憐で愛らしい令嬢の面影は、すっかり鳴りを潜めている。
代わりに彼女が身につけたのは、男の欲望を煽る退廃的な色気と、生きるための狡猾さだった。彼女は私娼窟を根城にする凶悪な盗賊団に囲われ、色仕掛けで標的の懐に潜り込む『引き込み役』として、王都の闇の底で悪事に手を染め続けていたのである。
「……ふふっ。馬鹿な男。酒に酔ってすぐに眠ってしまったわ。さあ、今のうちに金目のものを……」
ある夜。マリアンヌが標的の豪商を眠らせ、盗賊団の仲間を屋敷へ引き入れようとした、まさにその時だった。
「――お前の悪運も、ここまでだ」
暗闇から音もなく現れた黒い将校服の男――キースが放ったナイフが、盗賊たちの松明を正確に撃ち落とした。
「なっ……王都撃滅隊! なぜここに!」
「よそ見は致命傷ですわよ!」
大剣を構えたルイーザと、精鋭隊員たちが怒涛の勢いで雪崩れ込んでくる。
盗賊団は抵抗する間もなく、撃滅隊の圧倒的な武力の前に一網打尽にされた。縛り上げられた盗賊たちの中で、マリアンヌは逃げることも喚くこともせず、ただ虚ろな目でルイーザを見上げていた。
「貴女は……あの時の、男爵令嬢……」
かつての政敵であり、自分を陥れようとした女の変わり果てた姿に、ルイーザは複雑な表情で息を呑んだ。
数日後。王都奉行所、大白州。
盗賊の引き込み役として数々の重罪に加担したマリアンヌは、砂利の上に引き出されていた。
上座には奉行のキンズリーが座り、傍聴席には事件を制圧したルイーザとキースが控えている。
「元男爵令嬢、マリアンヌ。盗賊への加担、窃盗、および過去の王家への欺瞞行為……これら数多の罪状に、相違ないか?」
キンズリーが低く厳格な声で問い詰める。
かつての彼女であれば、「私は悪くない!」「公爵令嬢の罠よ!」と金切り声で猛々しく喚き散らしていただろう。
しかし、今の彼女にその気力は微塵も残っていなかった。
「……ええ。全て、間違いありません」
擦れ切った声で、マリアンヌは粛々と自身の罪を受け入れた。
そのあまりにも静かな諦観に、キンズリーも、ルイーザも僅かに目を見張る。
「言い訳はねえのか? てめえの罪は、死罪は免れねえぞ」
「言い訳なんて、ありませんわ。……もう、疲れたの」
マリアンヌは自嘲気味に笑い、白州の砂利の上に手をついた。
「泥水を啜って、男に媚びて、嘘をついて生き延びる毎日に……もう、すっかり疲れ果ててしまいました。今なら、あの方の元へ逝ける……」
あの方。
その言葉が誰を指しているのか、その場にいる全員が悟った。
愚かな選択の末に国を傾け、この王都で処刑された前王太子、ユリウスのことである。
「確かに、私が王太子殿下に近づいたのは、富と権力が欲しかったから。……私欲にまみれていたのは事実ですわ」
マリアンヌの目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「でもね……。私、あの方の不器用な優しさを、真っ直ぐな笑顔を、純粋に憧れ、愛していた時もあったの。……あの方の隣に立つために、私なりに必死だったのよ。やり方は、全部間違っていたけれど」
マリアンヌは縛られた手で自身の懐をまさぐり、くすんだ衣服には全く不釣り合いな、豪奢な『金のロザリオ』を取り出した。
それはかつて、王太子ユリウスが彼女に永遠の愛を誓って贈った、唯一手放さずに隠し持っていた宝物だった。
「奉行様……。どうせ死ぬ命、最期に一つだけお願いがあります」
マリアンヌはロザリオを握りしめ、深く頭を下げた。
「どうか、このロザリオと一緒に……私を、埋葬してください。あの世で、殿下に顔向けできるように……」
私欲と悪意に塗れた偽聖女の、最後に残ったただ一つの純情。
静まり返る白州で、キンズリーは深く息を吐き出し、奉行としての威厳を込めて木槌を打ち鳴らした。
「……いいだろう。てめえの最期の願い、このキンズリーが確かに聞き届けた。冥土の道中、そのロザリオを落とさねえようにしっかり握って行きな」
「……ありがとうございます。奉行様」
マリアンヌは憑き物が落ちたように穏やかに微笑むと、役人たちに引かれ、静かに白州を後にした。
「……終わりましたわね」
白州を出たルイーザは、秋の空を見上げながらぽつりと呟いた。
怒りも憎しみもない。ただ、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような、物悲しい余韻だけが残っていた。
「ええ」
隣を歩くキースも、静かに夜空の月を見上げていた。
「前王太子の処刑。そして、彼と共に狂乱の時代を作ったあの女の最期。……これで本当に、一つの時代が終わったんですね」
「ええ。悪い時代でしたけれど……あの方にも、あの方なりの愛があったのでしょうね。それがほんの少しでも、正しい方向へ向かっていれば……」
悲しい歴史のifに思いを馳せるルイーザの肩を、キースはそっと抱き寄せた。
「俺たちは、あの痛みを教訓にして前へ進むだけです。二度と、あんな悲しい女(悪党)を生み出さないために」
「……そうですわね。私たちの役目も、あと少しで終わります」
かつて国を揺るがした偽聖女は、胸に金のロザリオを抱いたまま、王都の片隅でひっそりと露と消えた。
狂気と混乱に満ちた旧時代の残滓が完全に清算されたこの日。奉行所の役人たちも、撃滅隊の面々も、訪れつつある「完全なる平穏」の足音を感じながら、深い感慨に耽るのだった。
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