老剣客
王都の気候もすっかり落ち着き、涼やかな風が吹き始めた頃。
ルイーザとキースは、王都の治安状況の報告と時節の挨拶を兼ねて、グランチェスター公爵邸を訪れていた。
「――奉行所のキンズリー閣下や、オズワルド大公殿下との連携も滞りなく。王都の治安は、着実に平穏を取り戻しつつありますわ、お父様」
「うむ。お前たち撃滅隊の働きは見事だ。私も鼻が高いよ」
執務室のソファで、公爵は満足げに頷き、ルイーザに温かい眼差しを向けた。
その時、部屋の隅で静かにお茶を飲んでいた『一人の老人』が、コトリとティーカップを置いた。
「どうやら、私のような年寄りの出る幕は、これからの王都にはなさそうですな。……公爵閣下、本日はこれにて失礼いたします」
老人はゆっくりと立ち上がり、ルイーザとキースに恭しく一礼した。
小柄な好々爺で、柔和な笑みを浮かべている。だが、その服の上からでも分かる無駄のない引き締まった体つきと、何より――全てを見透かすような*澄み切った双眸が、強烈な印象を放っていた。
「お初にお目にかかります、撃滅隊の若き獅子たちよ。私は、コリン・アッシュと申します。以後、お見知りおきを」
穏やかに名乗り、音もなく静かに退室していく老人。
扉が閉まった瞬間、ルイーザとキースは無言で目配せをした。
「……お父様。あの方は、只者ではありませんわね」
「あの歩法。足音一つ、殺気の欠片一つ漏らしていなかった。並の暗殺者や剣士が束になっても敵わない、本物の『達人』だ」
二人の鋭い指摘に、公爵は愉快そうに笑った。
「はっはっは、さすがは撃滅隊の隊長と副長だ。見抜いたか」
公爵によれば、コリン・アッシュというあの老人は、隠居の身でありながら王都では「知る人ぞ知る」凄腕の剣客なのだという。
「あいつは私の個人的な友人でね。たまにこうして遊びに来ては、個人的な相談に乗ってもらっているのだ。かつては我が公爵家の剣術指南役を任せていたほどでな。……今は流石に歳だと言って、同じく剣客である息子のディランに道場ごと代替わりしてもらったそうだがね」
「へぇ。公爵家の剣術指南役、ねえ」
キースは顎に手を当て、面白そうに目を細めた。
「隊長殿。そのアッシュ道場とやらは、どうやらうちの屯所から案外近い場所に構えているらしいですよ」
「ふふっ。キースも気になりますのね? 帰りに少し、覗いてみましょうか」
武の道を志す者として、達人の道場に興味が湧かないはずがなかった。
道場破りと、一瞬の妙技
王都下町の一角にある、こぢんまりとした清廉な道場。
ルイーザとキースがその板戸を潜ると、そこでは間の悪いことに、ひどく剣呑な空気が漂っていた。
「たのもーっ! 俺は流浪の剣客、ザック! アッシュ道場の主と立ち合いを所望する!」
道場の中央で、身の丈ほどもある野太刀を構えた荒くれ者の剣客が、道場破り特有の殺気を撒き散らして怒鳴っていた。王都で名のある道場を潰し、自身の箔をつけるのが目的なのだろう。
「やれやれ……。息子のディランは、あいにく出稽古で留守にしておりましてな。代わりに、隠居のこの年寄りがお相手をいたしましょう」
そこに木刀を提げて現れたのは、先ほど公爵邸で別れたばかりのコリン老人だった。
彼は見学席に静かに座ったルイーザたちに気づくと、小さくウインクをして見せ、そのまま自然体で道場破りの前に立った。
「ちっ、枯れ木みたいなジジイが出てきやがった! 怪我しても知らねえぞ!」
「ええ、構いませんとも、さあ、どこからでも」
コリンは木刀をだらりと下げたまま、全く構えようとしない。
隙だらけに見えるその姿に、道場破りの男は「舐めるな!」と激昂し、野太刀を大上段に振りかぶって突進した。
「死ねぇぇっ!」
剛剣が、老人の脳天を真っ二つに割ろうと振り下ろされる。
ルイーザが思わず息を呑んだ――その瞬間。
パァンッ!!
乾いた高い音が道場に響き渡った。
勝負は、文字通り『一瞬』だった。
突進してくる相手の太刀筋を見切り、コリンはスッと半歩だけ右へ滑るように躱す。そして、がら空きになった男の小手を木刀の峰で正確に打ち据え、その反動を利用して、木刀の柄尻を男の顎の先端にトンッ、と軽く突き入れたのだ。
「あ、がっ……!」
力任せの勢いと、的確な急所への衝撃。道場破りの男は白目を剥き、何が起きたのかも理解できないまま、ドサリと床に崩れ落ちた。
「……お見事」
キースが感嘆の声を漏らし、拍手を送る。
「ええ、本当に……。一切の力みがなく、相手の力を完全に利用する、流水のような剣技。惚れ惚れしてしまいますわ」
大剣という『剛』を極めたルイーザにとっても、コリンの『柔』の剣は目を見張るものがあった。
「おや、お恥ずかしいところをお見せしましたな。……さあさあ、こんなむさ苦しい男は放っておいて、奥へどうぞ」
コリンは気絶した道場破りを放置し、朗らかに笑って二人を居間へと案内した。
「父上、ただいま戻りました……。おや、お客様ですか?」
奥の居間でコリンの淹れた茶を飲んでいると、玄関から大きな声と共に一人の青年が入ってきた。
彼が、アッシュ道場の現道場主である息子・ディラン・アッシュだった。
「おお、帰ったかディラン。こちら、公爵家令嬢のルイーザ様と、撃滅隊のキース副長だ」
「おお、撃滅隊の……! これは失礼いたしました」
ディランは慌てて床に正座し、深く頭を下げた。
剣客らしい大柄で筋骨隆々の立派な体格。だが、その飾り気のない真っ直ぐな表情と、父によく似た『澄んだ双眸』からは、彼の生真面目で朴訥とした人柄が滲み出ていた。
「堅苦しい挨拶は不要ですわ、ディラン殿。今日はただのご近所へのご挨拶ですから」
ルイーザが微笑むと、ディランは顔を真っ赤にして「は、はいっ!」と直立不動になる。
「せっかくお越しいただいたのです、粗茶だけというわけにもいきません。せめて食事でも。ディラン、台所へ行って大根の煮物と、麦飯の用意を」
「承知いたしました、父上!」
しばらくして運ばれてきたのは、派手さはないが、出汁の匂いがふわりと香る大根の煮物と、ふっくらと炊かれた麦飯、そして熱い汁物だった。
「粗末なものですが、よろしければ」
「とんでもない。いただきます」
キースが煮物を口に運ぶ。その瞬間、彼の切れ長の目が少しだけ見開かれた。
「……美味いな。味が奥まで染みていて、心が解けるようだ」
「本当ですわ! 豪華な晩餐も良いですが、こういう心のこもった温かいお食事、わたくし大好きですの!」
ルイーザが満面の笑みで麦飯を頬張るのを見て、コリンとディランは嬉しそうに目尻を下げた。
「そう言っていただけると、作った甲斐があります。……お二人とも、いつも王都の治安のために命を懸けておられる。撃滅隊の皆様には、一介の剣客として本当に頭が下がる思いです」
ディランが真摯な目で語りかける。
「ああ。公爵閣下のお膝元であるこの王都、何か我々でお力になれることがあれば、いつでも道場へ相談に来てくだされ」
コリンも温かい茶をすすりながら、力強く頷いた。
「ありがとうございます。その言葉だけで、百人力ですわ」
美味しい食事と、剣客親子の温かいもてなしに心身を満たされ、ルイーザとキースは秋の夜風が吹く道を歩いて屯所へと帰っていた。
「素敵な親子でしたわね。あの双眸……剣の腕だけでなく、心も清らかに澄み切っているのが分かりましたわ」
「ええ。王都には、まだまだあんな達人たちが隠れている。……俺たちも、うかうかしてられませんね」
キースは夜空を見上げ、ふっと笑みをこぼした。
血生臭い任務と、悪意に塗れた裏社会。
だが、その闇を切り裂いた先には、ミッチェル大公やオズワルド大公、そしてアッシュ親子のようなどこまでも頼もしい「縁」が、確実に繋がり始めている。
「明日からも、また頑張らなくてはなりませんね」
並んで歩く隊長と副長の足取りは、いつになく軽かった。
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