影が依頼した『仕置』
「――っ、はぁ、はぁ……!」
早朝の屯所の中庭。日課である大剣の素振りをしていたルイーザの動きが、ふと不自然に止まった。
いつもなら軽々と振り回すはずの剣先が地面に落ち、彼女の身体が糸の切れた人形のようにグラリと傾く。
「隊長!」
地面に倒れ伏すよりも早く、黒い旋風となって駆けつけたキースが、その細い身体を腕の中に抱きとめた。
ルイーザの顔は青白く、額にはびっしょりと脂汗が浮かび、荒い息を吐いている。
「キ、キース……わたくし、急に目の前が真っ暗に……」
「喋らなくていい。」
激務に次ぐ激務。王都の治安を背負い、誰よりも前線で剣を振り続けてきた彼女の身体は、とっくに悲鳴を上げていたのだ。
キースはすぐさま隊員たちに指示を飛ばし、王都下町から「最高の腕を持つ」と噂される大柄な町医者を、半ば強引に屯所へと連行してきた。
「……過労からくる風邪だな。緊張の糸が張り詰めていた分、一気にガタが来たんだろう」
隊長室のベッドに横たわるルイーザを診察し終えたヴァレリアンは、渋い声で淡々と告げた。
「命に別状はねえ。この薬を飲ませて、数日は絶対に剣を握らせるな。……あの細い身体で、よくあんな鉄塊(大剣)を振り回せるもんだ」
「感謝します、先生」
安堵の息を吐くキースに見送られ、ヴァレリアンは往診鞄を持って隊長室を出た。
そのまま屯所の裏口から帰ろうとした大男の背中へ、キースが声をかける。
「――少し待ってくれ、ヴァレリアン先生。俺の仕事、受けてくれちゃくれないか?」
その冷たく沈んだ声色に、ヴァレリアンは足を止めた。
振り返ったキースの目は、先ほどまでルイーザを案じていた副官のものではなく、裏社会で血の雨を降らせる『暗殺者』のものへと変わっていた。
「……お前がわざわざ他人に殺しを依頼するだと? 標的は誰だ」
ヴァレリアンが探るように目を細める。
「撃滅隊から先週脱走した、元・第三部隊の隊員だ。……あいつは今、撃滅隊が『誰に、どんな捜査をしているか』という機密情報を手土産にして、王都のマフィアに寝返ろうとしている」
もしその情報が渡れば、撃滅隊の密偵たち(風鴉)や、進行中の作戦に致命的な被害が出る。絶対に生かしてはおけない裏切り者だった。
「なら、お前がやればいいじゃねえか。そんな裏切り者の始末、お前の腕なら朝飯前だろう」
「……俺は、隊長殿の看病をしなくちゃなんないだろ?」
ふざけたようなキースの言い訳に、ヴァレリアンは鼻で笑った。
「くだらねえ嘘をつくな。本当の理由はなんだ」
「……」
キースは隊長室の扉をちらりと振り返り、ひどく苦い顔で言葉を紡いだ。
「あの人は、潔癖で真っ直ぐすぎるんだ。……もし、自分の部下が裏切った挙句、俺の手で始末されたなんて事実を知れば、あの人は必ず『自分の不徳の致すところだ』と自らを責め、責任を取ろうとする。……俺は、あの美しい光に、そんな泥水を啜らせたくない」
キースたちのように、裏社会の汚泥に慣れきった人間ばかりではない。
彼女の純粋さは撃滅隊の要だが、同時に脆さでもある。だからこそ、彼女の目につく『身内の裏切り』という最悪の絶望は、完全に別の形に偽装して闇に葬る必要があった。
その切実な暗殺者の想いに、ヴァレリアンは小さく息を吐いた。
「……分かった。仕事を受けよう」
「恩に着る。……これ、前金だ」
キースから渡された重い革袋(半金)を懐に納め、ヴァレリアンは「看病、しっかりやってやれよ」とニヤリとし、屯所を後にした。
それから数日後。
王都の歓楽街にある安女郎屋で、一人の男の死体が発見された。
「……身元は、数日前から無断欠勤していた撃滅隊の隊員で間違いありません」
現場を検分した奉行所の役人が、屯所へ遺体を運び込んできた。
死因は『腹上死』。女を抱いている最中に突如として心臓の発作を起こし、そのまま絶命したという。目立った外傷も毒の痕跡もなく、ただの「だらしのない事故死」としてあっさりと処理された。
だが、キースだけは知っていた。
彼がマフィアと接触する直前、歓楽街で遊んでいた隙を突き、ヴァレリアンの放った不可視の針がその心臓を正確に貫いたのだということを。
「うっ……うぅ……っ。どうして……」
屯所の裏手で行われた、ささやかな葬儀。
棺の中で眠る元隊員の顔を見て、すっかり風邪の抜けたルイーザが、大粒の涙をこぼして泣いていた。
「わたくしが、もっと彼の抱えていた不満や悩みに気付いていれば……こんな寂しい場所で、一人で命を落とすことなんてなかったかもしれないのに……っ」
裏切り者とも知らず。彼が自分たちを売ろうとしていたことなど欠片も疑わず。
ただの「不慮の事故で死んだ大切な部下」として、ルイーザは彼のために本気で涙を流し、その冥福を祈っていた。
「……ご自分を責めないでください、隊長。彼は、貴女のような立派な上官の元で働けて、きっと幸せだったはずです」
キースは、黒い喪服に身を包んだルイーザの華奢な肩を抱き寄せ、心にもない白々しい慰めの言葉を囁いた。
「キース……っ」
「泣きたい時は、俺の胸で泣いてください。……アンタの悲しみは、俺が全部受け止めますから」
ルイーザがキースの胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくる。
キースは彼女の背中を優しく撫でながら、棺の中で冷たくなっている裏切り者へ、氷のように冷酷な視線を落とした。
(……これでいい)
どれほど自分が汚れようとも。どれほど残酷な嘘を吐こうとも。
彼女がこうして、仲間を信じ、真っ直ぐな涙を流せる『綺麗な世界』だけを守り抜けるなら、他には何もいらない。
悲しみに暮れる隊長と、その影に潜む暗殺者の底知れぬ愛情は、偽りの葬列の中で静かに溶け込んでいくのだった。




