町医者と竹細工職人
王都は、途方もなく巨大な都市である。
戦乱や愚王の圧政で荒れ果てたとはいえ、現在の復興の足音は力強く、急ピッチで進んでいる。だが、光が眩しさを増せば増すほど、その足元にはより濃く、深い『影』が生まれるのが大都市の常であった。
王都下町の一角に、小さな診療所がある。
主の名は、ヴァレリアン。背の丈は190センチにも届きそうなほど大柄で、白衣の下には鋼のように鍛え上げられた肉体を隠し持っている。彫りの深い渋い目鼻立ちは一見すると近寄りがたい凄みがあるが、その腕は王宮の侍医をも凌ぐと噂される腕利きの町医者だ。
彼は金のない貧民からは一銭も取らず、金持ちからも貧乏人からも分け隔てなく診察を行うため、近隣の住民からは「生き神様」のように尊敬されていた。
「先生、本当にありがとうございました……っ。このご恩は一生忘れません!」
「なあに、お前さんの坊主が助かって何よりだ。温かくして寝かせてやりなさい」
涙を流して拝む母親を見送り、ヴァレリアンは渋くも温かみのある笑みを浮かべた。
だが、この名医には唯一の欠点があった。ひどく気まぐれなのだ。
「おう、ヴァレリアン。今日もまたタダ働きかい」
ふらりと診療所に現れたのは、親友であり竹細工職人のユーゴ。
涼しげな目元をした細面の美丈夫で、道中もすれ違う町娘たちから黄色い声を上げられて言い寄られていたが、本人は鬱陶しそうに相手にすることなく飄々と玄関をくぐってきた。
「ユーゴか。……ああ、今日の診察はもうお終いだ。看板を下げてくれ」
ヴァレリアンは彼が来ると、待合室に患者がいようとお構いなしにふらりと医院を閉め、酒を飲みにいったり、数日間の旅に出たりしてしまうのである。
だが、彼らが連れ立って出かけるのには、単なる気まぐれとは違う『裏の理由』があった。
彼らは、法では裁けぬ悪人を秘密裏に始末する、闇の暗殺者――『仕置人』だったのである。
彼らは無差別に人殺しを請け負うわけではない。
『蔦のオットー』と呼ばれる、裏社会で最も信頼の厚い古参の元締からのみ依頼を受け、法で裁けぬ本物の悪党だけを確実に始末してきた。だからこそ、彼らは裏の住人からも、密かな敬意を集めていた。
その日、薄暗い地下の酒場で、オットーは重々しい口調でヴァレリアンたちに切り出した。
「厄介な仕事を頼みたい。……悪い女がいる。表向きは正義の顔をしているが、裏では巨大な組織をバックに持ち、権力を笠に着てやりたい放題の悪女だ」
「ほう。で、報酬は?」
「大金貨、百枚だ」
その破格の金額に、ユーゴが整った顔を顰めさせる。
「百枚とは恐れ入る。で、その悪女の名前は?」
オットーが低く囁いた名前に、ヴァレリアンは彫りの深い目を細めた。
「……王都撃滅隊隊長、ルイーザ・ヴァン・グランチェスター。なるほど、法で裁けぬ化け物相手なら、大金貨百枚でも安いぐらいだ」
撃滅隊の悪名は裏社会にも轟いている。だが、オットーの「悪女である」という情報を疑うことはなかった。何年も命を預け合ってきた『蔦』が言うのだから、彼女は始末すべき悪なのだろうと。
「引き受けよう。今夜のうちに仕置する」半金の大金貨50枚を懐にし、ヴァレリアン達は夜の闇へと溶けていった。
深夜。
王都撃滅隊の屯所。その奥にある隊長室の窓辺に、ヴァレリアンとユーゴは音もなく忍び寄っていた。
巨体を闇に溶け込ませたヴァレリアンが窓の隙間から中を覗き込むと、机に突っ伏して無防備に眠るルイーザの姿が見える。
(……あの寝顔が、極悪人のものだとは到底思えんが。まあいい)
ヴァレリアンが医療用の針を構え、ユーゴが護衛のために研ぎ澄まされた細工用の錐を握った、まさにその時。
「――そこから先へは踏み込まない方がいい。ウチのエルマーが仕掛けた爆薬が起爆するぜ」
背後の暗闇から、ヒュッと風を切る音が響いた。
二人が瞬時に振り返ると、月明かりを背にした屯所の屋根の上に、黒い将校服を着たキースがしゃがみ込んでいるのが見えた。
その手には、艶やかな光を放つナイフが握られている。
「……気づかれていたか」
ヴァレリアンが油断なく身構えるが、キースはナイフを弄りながら、ひどく面倒くさそうにため息を吐いた。
「『神の手を持つ巨漢の町医者』と、『女に見向きもしない無音の竹細工師』。……まさか、スラムの生ける伝説が、うちの隊長殿の寝首を掻きにくるとはな」
「俺たちの顔を知っているとは、お前も只者ではないな。副長のキースと見た」
一触即発の空気が流れる。裏社会の頂点に立つ者同士の、息の詰まるような殺気の応酬。
だが、キースはあっさりとナイフを鞘に納め、両手を上げて見せた。
「アンタらと殺し合う気はない。俺はただ、アンタらが『偽の仕事』で命を落とすのが惜しいだけだ」
「偽の仕事だと?」
「ああ」と、キースは冷ややかに笑う。
「アンタらに殺しを依頼したのは、先日うちの隊長と奉行所が裁いた『マクシミリアン侯爵』の親族さ。私怨にまみれた貴族が、復讐のために莫大な金を積んだ。……アンタらの元締である『蔦のオットー』は、その大金に目が眩んで、裏社会の掟を売ったんだよ」
その言葉に、ヴァレリアンとユーゴの顔色が変わった。
彼らの流儀は、「法で裁けぬ悪党を始末する」こと。決して、私怨や金のための単なる人殺しではない。
「……オットーが、掟を破ったと?」
「信じるか信じないかは任せる。だが、俺の言うことが嘘だと思うなら、今すぐそこで眠っている隊長の首を掻き切ってみろ。俺は止めない」
キースはそう言って、隊長室の窓を指差した。
ヴァレリアンは窓越しに、スゥスゥと静かな寝息を立てるルイーザを見つめる。
長年、数多の悪党の命を絶ってきた暗殺者の直感が告げていた。あの無防備で純粋な寝顔に、悪意など微塵も宿っていないことを。
「……」
ヴァレリアンはゆっくりと、手にした医療用の針を懐に納めた。隣でユーゴも錐をしまう。
「……どうやら、あんたの言う通りらしい。あの小娘から、悪党の匂いは全くしねえ」
「分かってもらえて何よりだ。あんな純粋で真っ直ぐな生き物、裏社会の毒牙にかけるには惜しいだろう?」
キースが艶やかに微笑むと、ヴァレリアンは渋い顔に自嘲気味な笑みを浮かべ、鼻を鳴らした。
「全くだ。……忠告、感謝するぜ。あんたの言う通り、俺たちの『蔦』は、根元からすっかり腐り落ちちまっていたようだ」
「ああ。伐採はお早めにな」
二人の仕置人は、キースに背を向けると、来た時と同じように一切の音を立てず、夜の闇へと消えていった。
「冷や汗かいたぜ、いつも思うがどこにでも化け物みたいのはいるもんだな」キースは密かに一人ごちた。
それから数日後のこと。
王都の裏社会を密かに揺るがす、二つの奇妙な変死事件が起きた。
マクシミリアン侯爵の残党であった貴族と、裏社会のフィクサー『蔦のオットー』が、それぞれの自室で「心臓麻痺」を起こして急死したのである。
奉行所の検死官が調べても、毒の痕跡も外傷もなく、完全にただの病死として処理された。
「……『心臓麻痺』、ね」
撃滅隊の屯所。
奉行所から回ってきた死亡報告書を読みながら、キースは淹れたての紅茶を口に運んだ。
心臓の急所を、大男が放つ毛髪よりも細い医療用の針で一突き。王都の生き神様が放つ、絶対に証拠の残らない『仕置』の痕跡だった。
「キース、何か面白いことでも書いてありましたの?」
書類仕事から顔を上げたルイーザが、不思議そうに首を傾げる。
「いいえ。ただ、王都のゴミがまた少し減ったみたいで、気分が良いだけですよ」
「もう。なら早くその書類の束を片付けてくださいな。今日は午後から、奉行所との合同会議があるんですから」
ルイーザが頬を膨らませて小言を言う。
キースはその愛嬌たっぷりの顔を愛おしそうに見つめながら、死亡報告書を静かに暖炉の炎の中へと放り込んだ。
光が強くなれば、影もまた濃くなる。
だが、その暗い影の中にも、彼らなりの確かな『矜持』が存在している。
自分とは違う流儀で悪を屠る凄腕の仕置人たちに密かな敬意を払いながら、キースは今日も光の当たる場所で、気高き隊長の隣に立ち続けるのだった。
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