大川に沈む汚濁と、美しき隊長への嘘
王都を縦断する大川のほとりに、朝靄が立ち込めていた。
普段は荷船が行き交う活気ある川岸だが、今朝ばかりは重苦しい空気が漂っている。奉行所の役人たちが規制線を張り、引き揚げられた水死体の実況見分を行っていたからだ。
「……あいつ、見つかったか」
規制線の外側、人目のつかない橋の下。遊び人のような着流しの上に外套を羽織った王都奉行キンズリーが、忌々しそうに葉巻を噛み潰した。
「ええ。残念ながら、最悪の形でね」
隣に並ぶキースも、冷たい視線を川岸へ向けていた。
事の発端は数週間前。奉行所の若手役人が、捜査中に忽然と姿を消したことだった。
追っていた犯罪組織に消されたのではないかと、奉行所は血眼になって王都中を捜索した。キンズリーから密かに協力要請を受けた撃滅隊も、ランス率いる『風鴉』の密偵たちを総動員して裏社会を洗ったが、何故か役人の足取りはプツリと途絶えていたのだ。
そして今朝。数日ぶりに発見された役人は、無惨にも簀巻きにされ、大川に浮かんでいた。
「……で? 密偵どもが拾い集めた情報と、死体の状況を合わせて、何が見えてきた?」
キンズリーが低く唸るように問う。キースは表情を変えず、淡々と報告を始めた。
「役人が追っていたのは、王都西区を縄張りにする『毒蜘蛛』という盗賊団です。うちの密偵の調べで分かりましたが……あの役人は、捜査中に組織の女盗賊にハニートラップを仕掛けられていた」
「……なんだと?」
「女の骨抜きにされ、さらには見逃し料として定期的に賄賂まで受け取っていたようです。ですが、役人の要求額が日に日に釣り上がり、鬱陶しくなった盗賊どもは、女と寝ている隙を突いて役人を暗殺した。……そして、他の役人への『見せしめ』として、あえて目立つ簀巻きにして川へ捨てたんでしょう」
キースの報告を聞き終えたキンズリーは、ギリッと奥歯を鳴らし、手にしていた葉巻を地面に叩きつけて革靴で踏みにじった。
「馬鹿野郎が……! 奉行所の人間が、悪党の女に溺れて賄賂を受け取っていた挙句、寝首を掻かれただと……!」
怒りと恥辱で、キンズリーの顔が朱に染まる。
無理もない。もしこの真相が世間に公になれば、奉行所にとっては屋台骨を揺るがすほどの致命的なスキャンダルとなる。前回の書記官エレノアの一件もあり、奉行所の威信は地に落ちてしまうだろう。
「閣下。この件、奉行所で正規の捜査を進めれば、必ず役人の汚職が露見します」
「……分かっている」
キンズリーは深く息を吐き出し、「キース副長。頼みがある。……俺の部下の尻拭いで申し訳ねえが、あの『毒蜘蛛』の連中を、お前たち撃滅隊で秘密裏に処理してくれ」
「俺たちに、証拠ごと闇へ葬れと?」
「ああ。連中を奉行所の法廷に引きずり出せば、役人との癒着を必ず口にする。……それだけは避けなきゃならねえ。頼む、この借りは必ず返す」
王都奉行としてのプライドを捨てて頭を下げるキンズリーに、キースはフッと口角を上げた。
「顔を上げてください、閣下。借りの取り立てなら、うちの隊長殿が困った時にでも手助けしてもらえれば十分です」
キースは踵を返し、朝靄の中へと歩き出す。
「――明日の朝には、『毒蜘蛛』という組織はこの王都から跡形もなく消え去っているでしょう」
その日の深夜。
王都西区の廃娼館に巣食う『毒蜘蛛』のアジトは、音のない地獄と化していた。
「ひ、ひぃぃっ! なぜ撃滅隊が……っ!」
「た、助けっ……!」
「五月蝿い。静かに死ね」
キースの手から放たれた数本の暗器が、逃げ惑う盗賊たちの喉を正確に貫く。悲鳴すら上げさせない、完璧な暗殺術。
「オラァッ! 奉行所の役人を殺してタダで済むと思ったか、三下どもが!」
ガルドの双剣が盗賊の幹部を容赦なく両断し、シオンの投げナイフが暗闇から次々と獲物を狩っていく。
キースが連れてきた精鋭たちによって、数十人いた『毒蜘蛛』の構成員は、わずか十数分で文字通り全滅した。
「キース副長、制圧完了しました。例の女盗賊と、役人の汚職の証拠になる裏帳簿も確保しましたぜ」
血に濡れた双剣を拭いながら、ガルドが報告する。
「ご苦労。帳簿はここで燃やせ。」
そして生き延びていた奉行所の役人を籠絡していた女の前にしゃがみ、「このことを今生で誰にも言わず、王都から黙って離れれば見逃してやる、が、喋るようならどこまでも追って殺す。わかったな」目の前にいる死神からの宣言で、恐怖の余り話すことも出来ず女は何度も頷き、脱兎の如く逃げ出した。
「しっかし、鬼の副長も女にゃ甘いですな、うちの隊長殿が知ったらカンカンに怒りそうな仕事ですねぇ」
「だから、絶対に秘密だ。あの人は、こんな泥沼のような汚職の話なんて知る必要はない」
キースは冷たく言い放ち、燃え上がる裏帳簿の炎を無表情で見つめていた。
こうして、奉行所を揺るがしかねないスキャンダルは、撃滅隊の『影』の仕事によって完全に闇へと葬り去られたのである。
数日後。王都撃滅隊の屯所。
「キース副長。少しよろしいかしら」
執務机で書類仕事をしていたルイーザが、柳眉をひそめてキースを呼び止めた。
「どうしました、隊長殿。お茶のお代わりですか?」
ソファで呑気にナイフを磨いていたキースが、甘い笑みを浮かべて首を傾げる。
「とぼけないでくださいませ。数日前に大川で発見された、奉行所の役人の殺人事件。……キンズリー閣下からうちにも捜査協力の依頼が来ていたはずですが、なぜか奉行所は急に『事故死として処理する』と捜査を打ち切りましたわ」
ルイーザは立ち上がり、キースの前にずいっと迫った。
「さらに不可解なことに、西区で悪事を働いていた『毒蜘蛛』という盗賊団が、その日の夜に一夜にして壊滅したという噂があります。大方、裏社会の抗争でしょうが……時期が良すぎますわ。キース、あなた何か知っていまして?」
ルイーザの真っ直ぐで嘘のつけない大きな瞳が、キースをじっと見据える。
彼女の直感は、鋭く真実の端を捉えていた。しかし、キースは微塵も動揺を見せず、ふっと艶やかに微笑んだ。
「さあ、俺には何のことやら。奉行所が事故だと言うなら事故なんでしょうし、悪党が勝手に潰し合ってくれたなら、王都の治安が良くなって重畳じゃないですか」
「嘘ですわ! あなた、絶対に関わっていますわね!? また私に隠れて、一人で危険な真似を……っ」
怒って頬を膨らませるルイーザ。
その愛嬌たっぷりの抗議がたまらなく可愛くて、キースはナイフを置くと、ルイーザの手をそっと取り、その手の甲に恭しく唇を落とした。
「っ……!?」
「俺は、隊長殿に隠し事なんてしませんよ。ただ、貴女の美しい手を煩わせるまでもない『ゴミ掃除』が少しばかりあっただけです」
突然の口付けと、至近距離で見つめてくる熱を帯びた切れ長の瞳。
ルイーザは怒っていたことも忘れ、瞬く間に顔を茹でダコのように真っ赤にした。
「なっ……! そ、そういう手には乗りませんわよ! 誤魔化さないでくださいませ!」
「誤魔化してなんていませんよ。俺の頭の中は今、どうやってこの麗しい隊長殿を喜ばせようかということでいっぱいですから」
「ば、ばかぁっ! いつもそうやって馬鹿にして!もう知りませんっ!」
結局、キースの甘い言葉とスキンシップに完全にペースを乱されたルイーザは、パニックを起こして隊長室から逃げ出してしまう。
バタン、と勢いよく扉が閉まる音を聞きながら、キースはククッと喉の奥で笑った。
(……すまないな、ルイーザ。でも、アンタのその真っ直ぐな綺麗さは、全部の泥を被ってでも守り抜きたいんだよ)
役人の汚職も、裏社会の陰惨な報復も。
すべての汚泥は暗殺者が闇で処理し、気高き大剣令嬢は今日も表の光の中を歩き続ける。
奇妙で、けれど完璧なバランスで成り立つ二人の関係は、王都の闇を今日も鮮やかに切り裂いていくのだった。




