愚王に捧ぐ狂信の愛
「――また、もぬけの殻か」
王都東区にある、密輸組織の隠し倉庫。
ガルドが蹴り破った扉の向こうには、荷物一つ、人の気配一つ残されていなかった。この一週間で、実に四度目である。
「どういうことだ。うちの密偵(風鴉)が掴んだ情報は絶対のはずだぜ」
ガルドが舌打ちをする横で、キースは落ちていた真新しい葉巻の吸い殻を拾い上げ、艶やかな切れ長の目を細めた。
まだ火が消えたばかりだ。撃滅隊が踏み込む直前まで、確実にここに標的はいた。
「……情報が漏れているな。うちか、あるいは奉行所か」
誰かが、撃滅隊の襲撃情報を悪党どもに裏で流している。
キースの内に、氷のような冷たい殺意が静かに満ちていった。
翌日の深夜。
王都の裏路地にある薄暗い酒場の個室に、キースは一人で足を運んでいた。
円卓の向こうでグラスを傾けていたのは、非番の『遊び人』の格好をした王都奉行、キンズリーである。
「で? うちの奉行所の中にネズミがいるって言いてえのか、副長殿」
「ええ。撃滅隊の作戦記録と照らし合わせました。俺たちの襲撃が空振りに終わった案件はすべて、事前に奉行所へ『引き継ぎの予定』として共有した事案だけです。うちの密偵の単独案件は成功している」
キースの淡々とした報告に、キンズリーは「なるほどな」と険しい顔で顎髭を撫でた。
「しかし、お前さん。こういう内偵の話なら、どうしてルイーザ嬢ちゃんを連れてこねえんだ?」
「……うちの隊長殿は、あまりにも真っ直ぐで嘘がつけない性質でしてね」
キースは苦笑しながら、手元のグラスを揺らす。
「身内に裏切り者がいるかもしれないなんて話を知れば、顔に出るし、心を痛めてしまう。だから、彼女には屯所で『今後の治安維持に関する重要書類』という名の、山積みの事務仕事を任せてきました。……汚れ仕事は、日陰者の俺と、ワルおじさんの閣下だけで十分でしょう」
「かっかっか! 違いねえ。あの嬢ちゃんは光の当たる道を真っ直ぐ歩いてりゃいいさ」
キンズリーは豪快に笑うと、ニヤリと肉食獣のような笑みを浮かべた。
「よし。俺の庭を荒らしたネズミだ。俺とお前さんで、極上の罠を張ってやろうじゃねえか」
数日後の夜。
奉行所の裏手にある人気のない路地で、黒い外套を被った人影が、伝書鳩を放とうとしていた。
キースとキンズリーが意図的に流した「偽の大型摘発情報」を、裏社会へ流すための連絡網である。
「――夜風に当たるには、少し遅い時間じゃないか?」
暗闇から響いた冷たい声に、外套の人影がビクッと肩を震わせた。
音もなく背後に立っていたキースが、外套のフードをナイフの先端でそっと払いのける。
そこにいたのは、奉行所の文官服を着た二十代半ばの女性だった。
「エレノア書記官……。俺の記憶が正しければ、あんたは三年前に奉行所に入った、優秀で真面目な役人だったはずだが」
キースの言葉に、エレノアと呼ばれた女性は伝書鳩の籠を取り落とし、自嘲するように乾いた笑いを漏らした。
そこへ、腕組みをしたキンズリーが物陰から姿を現す。
「お前だったか、エレノア。……どうして裏社会に情報を売った? 金に困っていたようには見えねえがな」
「金……? ええ、そんなものには欠片も興味はありません」
エレノアは逃げることを諦めたようにその場に崩れ落ちると、夜空を見上げて、ひどく熱に浮かされたような瞳で語り始めた。
「私を奉行所へ推薦してくださったのは……今は亡き、ユリウス王太子殿下でした」
その名を聞いて、キースは目をすがめた。
ユリウス。セレスティアとの婚約を破棄し、国を危機に陥れた末に、公爵やレオンハルトの手によって処刑された愚かな前王太子。
「世間は殿下のことを、国を滅ぼしかけた『愚王』と呼び、唾を吐きます。ええ、確かに殿下は凡庸で、見栄っ張りで、賢いお方ではありませんでした。……でも!」
エレノアの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私の実家の領地が飢餓に苦しんでいた時、『必ず救う』と私の手を握ってくださったのは殿下です! その言葉がただのおためごかしと今は理解できます。でも、あの御方は、私にとって暗闇を照らす唯一の『光』だった!」
それは、歴史の敗者となった愚王に捧げられる、哀しくも狂信的なオマージュ(鎮魂歌)だった。
愚かで無能だったかもしれない。だが、そんな彼にも、心から慕い、愛を捧げる者は確かに存在していたのだ。
「殿下を処刑し、偉そうにこの国を治めているグランチェスター公爵も、辺境伯も、その妹が率いる撃滅隊も……私にとっては憎き仇! お前たちが築き上げた偽りの平和など、私が裏からすべて壊してやるつもりだったのに……っ!」
泣き崩れるエレノアを見下ろし、キースはナイフをそっと鞘に納めた。
「……愚かだな。だが、その気持ちは分かる」
「え……?」
「自分が一度『光』だと定めた主のためなら、世界中を敵に回しても構わない。自分の手をどれだけ血と泥で汚そうが、どうでもよくなる。……狂ってるが、あんたのその想い自体は、本物だったんだろうよ」
同じように、一人の気高き女性を己の『光』とし、彼女のためなら喜んで手を汚す暗殺者だからこそ、キースには彼女の痛いほどの絶望が理解できた。
しかし。
「それでも、あんたを野放しにはできない。あんたの復讐は、俺の『光(隊長)』の歩む道を曇らせるからな」
キースの冷徹な宣告に、エレノアは力なく項垂れた。
「……連行しろ」
キンズリーが静かに部下たちに命じる。
「お前さんの愛した殿下は、もういねえ。法の下で、自分と向き合うんだな」
エレノアが奉行所の役人たちに引き立てられていくのを見送り、キースは夜空に浮かぶ新月を見上げた。
勝者と敗者。光と影。誰かの正義は、別の誰かにとっての悪となる。
その理不尽な世界で、自分はただ、愛する人の守りたいものを守り抜くだけだ。
「ふぁ……っ、キース、遅かったですわね……」
夜明け前。撃滅隊の屯所に戻ったキースを待っていたのは、執務机に突っ伏して微睡むルイーザの姿だった。
頬にはインクの跡がつき、手元には彼が押し付けた「今後の治安維持に関する膨大な計画書」が、完璧に処理された状態で積まれている。
「ただいま戻りましたよ、隊長殿。遅くまで起きていたんですか」
「あなたが……これを全部今日中にやれと言ったから……頑張りましたのよ……」
むにゃむにゃと寝言のように呟くルイーザの純粋で愛嬌のある寝顔を見て、キースの胸の奥にあった血生臭い感情が、春の雪のように溶けていく。
キースは手袋を外し、彼女の頬についたインクを親指で優しく拭い取った。
「お疲れ様。アンタは何も知らなくていい。この王都の闇も、哀しい恨み言も……俺が全部、アンタの目の届かないところで消し去ってやるから」
眠る彼女の髪にそっと口付けを落とし、キースは自身が選んだ光を、これからも影から命がけで守り抜くことを、新月の夜に固く誓うのだった。
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