誇り高き『影』たちと、血の流れない夜
王都のスラムにある薄汚れた酒場。
部屋の隅でエールを舐めていた元騎士ランスに向け、同業者である裏社会の悪党たちが声を潜めて囁きかけてきた。
「よう、風鴉の頭。最近あんたのところ、とんとデカい仕事(盗み)をしてねえらしいじゃねえか」
「南区の悪徳商人バルガスの旦那が、羽振りのいい『仕事』の元締めを探してるって話だ。どうだい、あんたのところの腕利きたちで請け負っちゃみねえか?」
ランスは深々と被った頭巾の下で、顔色一つ変えずに杯を傾けた。
「よしてくれ。うちは昔から、血の流れるような荒事には手を出さない主義なんでな」
そう言って適当にあしらいながらも、ランスの耳は周囲の悪党たちがこぼす情報の一片たりとも逃していなかった。
『風鴉が王都撃滅隊の密偵になった』などという事実は、裏社会の誰一人として知らない。密偵とは、顔が割れてしまえばその役目を果たせなくなるからだ。
彼らは表向きは未だに「義賊」としての顔を保ち、裏社会の闇に深く溶け込んでいる。だからこそ、警戒されることなく生々しい犯罪計画を嗅ぎつけることができるのだ。
(犬とでも盗賊とでも、何とでも呼ぶがいい。……我らは今、かつてなく誇り高い仕事をしているのだから)
ランスは杯を置くと、闇夜に紛れて静かに酒場を後にした。
「南区の巨大穀物庫に、火を放つ計画ですと!?」
撃滅隊の屯所、隊長室。
ランスからの報告を受けたルイーザは、バンッと両手で机を叩いて立ち上がった。
「ええ」と、ランスが真妙な顔で頷く。
「首謀者は悪徳商人のバルガス。奴は自分の商会の食糧価格を釣り上げるため、競合である南区の穀物庫を今夜、ゴロツキを雇って焼き払うつもりのようです。あの穀物庫が燃えれば、冬を越せない民が大勢出ます。……盗賊のふりをして奴らの懐に潜り込み、裏を取りました」
「許せませんわ……! 私腹を肥やすために民の命を脅かすなど!」
ルイーザが怒りに任せて背中の大剣に手を伸ばす。
「すぐに出撃しますわよ、キース副長! 穀物庫の前に伏兵を置き、放火犯どもが現れた瞬間に全員、根切りにして差し上げますわ!」
いつもなら「了解だ、隊長殿」と艶やかに笑って暗器を抜くはずのキース。
だが今日に限って、彼はソファに深く腰掛けたまま、呑気に林檎をかじっていた。
「まあ待てよ、隊長。今回はその『待ち伏せして皆殺し作戦』は却下だ」
「なぜですの!? 奴らを逃がせとでも?」
「逆だ。穀物庫の周りで乱戦になれば、万が一にも火の気が移っちまうかもしれないだろ。それに……うちの優秀な『影』たちが、せっかく誰も血を流さずに済む完璧な証拠を揃えてきてくれたんだからな」
キースの視線の先で、ランスが一冊の黒い帳簿を恭しく差し出した。
それは、バルガスがゴロツキたちに放火を依頼した際の、前金の支払い記録と指示書だった。ランス率いる風鴉が、商会の奥底から盗み出してきた決定的な証拠である。こんな事は本格の盗賊だった彼らにとって朝飯前の仕事だ。
「なるほど……。この証拠があれば、放火の実行前に首謀者を捕らえられますわね」
「そういうこと。というわけで今回は、血生臭い『お掃除』じゃなくて、平和的な『お仕事』といこうか」
キースは悪戯っぽく笑い、黒い将校服の襟を正して立ち上がった。
その夜。
悪徳商人バルガスは、自身の豪邸の執務室で、窓の外に赤々とした炎が上がるのを今か今かと待ちわびていた。
「ひひっ……そろそろ穀物庫が燃え上がる頃合いだ。これで王都の食糧事情は俺の商会が独占できる」
バルガスが下劣な笑みを浮かべ、高級なワインを口に運ぼうとした、まさにその時。
背後の扉が、ノックの音すらなく静かに開いた。
「残念だったな。お前の待ってる花火は、今夜は上がらない」
「なっ!?」
振り返ったバルガスの足元に、ゴトリ、と油の詰まった樽と松明が転がった。それは彼がゴロツキたちに渡したはずの放火道具である。
そこに立っていたのは、漆黒の将校服を着たキースと、大剣を背負ったルイーザ。
そして彼らの背後には、バルガスが雇ったはずのゴロツキたちが、一滴の血も流すことなく猿ぐつわを噛まされ、芋虫のように簀巻きにされていた。
「き、貴様ら……王都撃滅隊! なぜここに! それにこいつらは……っ!」
「うちの優秀な部下達が捕らまえたに決まってるだろ」
キースが冷たく言い放つと同時に、ルイーザが凛とした声で、黒い帳簿と指示書をバルガスの机に叩きつけた。
「実行犯はすでに制圧しましたわ。そしてこの証拠。……言い逃れはできませんわよ、バルガス」
「ひぃっ……!」
確たる証拠を突きつけられ、放火犯も気絶させられている。
一切の流血も暴力もなく、完全に退路を断たれたバルガスは、絶望に顔を歪めてその場にへたり込んだ。
「連行しなさい。奉行所に引き渡して、法の下で厳正に裁かせますわ」
ルイーザの冷徹な声が響き、バルガスは大人しく隊員たちに引き立てられていった。
剣を抜くことすらなく、未然に防がれた大惨事。それこそが、正体を隠し闇に潜み続ける『密偵』たちがもたらした最大の成果だった。
帰り道。
夜風が吹き抜ける王都の石畳。人目のない路地裏に差し掛かったところで、闇の中から音もなくランスが姿を現し、ルイーザとキースの前に深々と片膝をついた。
「お見事な手腕でした、ルイーザ隊長、キース副長。ゴロツキどもは、自分たちの計画がなぜばれたかも分っちゃありません。我々が撃滅隊の密偵であることは、裏社会でも極秘のままです」
「ええ、大儀でしたわ、ランス卿。貴方たちの働きがなければ、今頃王都の空は火の海でした。本当に、ありがとう」
ルイーザが花が咲くような愛嬌のある笑顔で礼を言うと、ランスは感極まったように頷き、再び誰にも気づかれることなく闇の中へと溶けていった。
その後ろ姿を見送りながら、ルイーザはふと、隣を歩くキースを見上げた。
「不思議ですわ。撃滅隊は『悪党を切り捨てる劇薬』として作られた組織なのに……今日みたいに、誰も傷つけずに事件を未然に防げるなんて」
いつもの血生臭い夜とは違う、穏やかな結末。
ルイーザが嬉しそうに目を細めていると、キースは彼女の頭にポン、と軽く手を乗せた。
「まあ、俺たちらしいやり方じゃないけどな」
「あっ……キース、また子供扱いして……」
抗議しようとするルイーザの言葉を遮るように、キースは艶やかな切れ長の目を細め、夜風に溶けるような甘い声で囁いた。
「でも、隊長殿がそんなに嬉しそうに笑ってくれるなら……たまにはこういう、誰も血を流さない平和な夜ってのも、悪くないだろ?」
「……っ!」
不意打ちのように落とされたその言葉と優しい眼差しに、ルイーザはボンッと音を立てるように顔を真っ赤に染めた。
「も、もう! あなたという人は、本当に隙あらばそうやってからかって……っ! わ、私は先に帰りますわ!」
「ははっ。暗いから足元には気をつけろよ、姫様」
悪を斬る苛烈な刃としての役目を背負いながらも、極秘の『影』たちの働きによってもたらされた、一時の平穏。
赤くなった耳を隠しながら足早に歩く大剣令嬢と、それを愛おしそうに見守る暗殺者の影は、月明かりの下で寄り添うように重なっていた。
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