逃亡者の戴冠と、誰の王でもない王の末路
時計の針を少しだけ戻す。
帝国軍が王都の防壁を破り、まさに市街地へ雪崩れ込もうとしていたその夜。
「ひぃぃっ! 城門が突破されたぞ! 早く、早く馬車を出せ!」
王太子ユリウスは、己を慕う一部の取り巻き貴族たちと、愛人のリリィだけを連れ、密かに王都を脱出していた。
彼らは、命懸けで戦う兵士や飢えに苦しむ市民たちを冷酷に見捨て、王都が陥落する直前、隠し通路から王都から逃げ出しのだ。国王の親戚筋の国に逃亡しようと、一台の馬車が、雨の降り頻る泥濘の夜道を揺れていた。
王太子ユリウス、愛人の男爵令嬢リリィ、そして前国王。彼らはわずかな護衛と金目のものだけを馬車に詰め込み、逃避行を続けていた。
王城の豪奢なベッドと甘いお菓子、常に侍女に傅かれる生活から一転。
隙間風の吹き込む冷たい馬車の中で、硬い干し肉を齧り、泥臭い水をすするだけの逃亡生活は、わずか数日でリリィの限界を超えさせた。
「もう嫌っ! なんで私がこんなカチカチの肉を食べなきゃならないのよ!」
ガタンッ! と馬車が大きく揺れた拍子に、リリィは手にした水袋を床に叩きつけた。
泥水が跳ね、彼女の汚れきったドレスの裾をさらに汚す。
「我慢してくれリリィ。今は追手から逃れるのが先決だ。行くあてもある。安全な場所に着けば、必ず……」
「 いつ着くのよ! ああもう、ドレスも泥だらけだし、体中痛いし、最悪っ!」
宥めようとするユリウスの手を、リリィは「触らないでよ!」と力一杯払い除けた。
これまでユリウスに向けられていた、小動物のような愛らしい上目遣いや、甘えるような声は微塵もない。そこにあるのは、自己中心的な怒りと苛立ちで夜叉のように歪んだ、醜悪な女の顔だった。
「だいたい、あんたが馬鹿だからこんなことになったんでしょうが!
「なっ……リリィ、お前、私に向かってなんという口の利き方を……」
「事実じゃない! あーあ、騙されてついてきた私が馬鹿だったわ。こんなことなら、さっさと別の金持ちの貴族にでも乗り換えとけばよかった!」
愛していたはずの「聖女」の口から飛び出した、あまりにも残酷で打算的な本音。
自分に向けられていた愛が、ただの「金と権力への執着」でしかなかったと悟り、ユリウスは血の気を失って愕然とした。
さらに、そのリリィの罵声に同調するように、怯えていた国王までもがユリウスを責め立て始めた。
「そ、そうだ! お前のせいだぞユリウス! お前がセレスティアを追放などするから、国が滅びたのだ! 私はお前を廃嫡し、一人で帝国に命乞いを……」
――ブツンッ。
ユリウスの中で、張り詰めていた最後の理性が千切れる音がした。
愛した女からの裏切りと罵倒。実の父からの廃嫡と見捨ての宣告。
極度の恐怖と屈辱で完全に正気を失ったユリウスは、獣のような叫び声を上げると、衝動的に腰の剣を引き抜いた。
「……あ、ああ……あぁぁぁっ!!」
ズブッ!!
鈍い音と共に、ユリウスの剣が、実の父親である国王の胸に深々と突き刺さった。
「がはっ……!? ゆ、りう……」
国王は信じられないものを見る目で息子を見つめ、ゴボッと大量の血を吐き出して事切れた。
「はぁっ……はぁっ……!」
顔に父親の返り血を浴び、ガタガタと震えながら剣を取り落とすユリウス。
自分が犯した取り返しのつかない大罪。正気に戻りかけた彼は、恐怖のあまり悲鳴を上げそうになった。
だが、その狂気の空間で、最もおぞましい反応を見せたのはリリィだった。
「……あーあ。死んじゃった」
目の前で人が、それも一国の王が惨殺されたというのに。リリィは一切の恐怖も悲しみも見せず、ただ汚物を見るような目で国王の死体を見下ろした。
そして、自分の頬に跳ねた血をドレスの袖で無造作に拭い取ると、ニィッ、と三日月のように口角を吊り上げて笑ったのだ。
「……でも、好都合じゃない?」
「え……?」
震えるユリウスの耳元に、リリィは甘く、毒を含んだ声で囁いた。
「王様が死んだってことは、今この瞬間から、あんたが『国王陛下』ってことでしょう? じゃあ、私が『王妃様』ね。」
「リ、リリィ……お前、何を……」
「さあ、国王陛下。邪魔なお荷物も消えたことだし、さっさと私を安全なお城に連れて行って、最高のベッドとドレスを用意しなさいよね! じゃなきゃ、あんたが親殺しだって言いふらしてやるんだから!」
父親の死体の前で邪悪なセリフを吐く神に選ばれし者
そこには清らかな慈愛の心など欠片もない。ただ己の強欲を満たすためだけに他者の死すら踏み台にする、性根の腐りきった醜悪な素顔が、泥濘む逃避行の闇の中で完全に露わになった瞬間であった。
「で、殿下……! な、なんということを……!」
「黙れ! 父上は逃走中に帝国の流れ矢に当たって崩御された! 私は今この瞬間から国王だ! 私こそが王なのだ!」
取り巻きの貴族たちはあまりのことに口をつぐむしかなく、ユリウスは逃亡先の野営地で、血にまみれた手で粗末な戴冠式を強行した。
帝国軍の索敵に怯えながら、城から持ち出した物資で命を繋ぐ有様は、かつての顔だけは美しく、形は豪奢であった王太子からは想像できないほど落ちぶれ果て汚れはてて、着ている服などは、元が良いだけに余計惨めに見えた。
そうして絶望が狂気に変わっていく。
その泥沼のような狂気と惨めさの只中に、リリィもまたどっぷりと浸かっていた。
「ちょっと! なんで私がこんな泥の上に座らなきゃならないのよ! 早くふかふかのベッドと、温かいお茶を持ってきなさいよ! 私は『王妃様』なんだからね!」
野営地の焚き火のそばで、リリィは癇癪を起こしてキーキーとわめき散らしていた。
しかし、彼女の命令を聞く者など誰もいない。取り巻きの貴族たちも、己の命をつなぐことで精一杯であり、狂った王の足元で喚く小娘など、もはや冷ややかな軽蔑の対象でしかなかった。
王都にいた頃の、男たちの庇護欲をそそる小動物のような愛らしさは、見る影もない。
豪奢だったドレスは泥と枯れ葉にまみれて破れ、何日も風呂に入っていない髪は鳥の巣のように絡まり、脂ぎっている。満足な食事もとれず、肌は荒れ果て、その顔には強欲とヒステリーによる醜い皺が刻まれていた。
「聞こえないの!? 私は神に選ばれた聖女なのよ! あんたたち、私が祈ってあげなきゃ生きていけないくせに!」
誰も相手にしてくれないことに苛立ったリリィが、怪我をした兵士の腕を無理やり掴み、癒やしの魔法をかけようとする。
しかし、何も起こらない。淡い光すら灯らない。
純粋な慈愛の心から発現する『聖女の力』は、自らの強欲のために「王殺し」を煽った彼女の腐りきった魂からは、とうの昔に失われていたのだ。
「あ、あれ……? おかしいわね、どうして……っ!」
「……触るな、薄汚い女め。お前など、ただの役立たずの阿婆擦れだろうが」
「な、なんですってぇっ!?」
かつては彼女に媚びへつらっていた貴族から無慈悲な言葉を吐き捨てられ、リリィは顔面を真っ赤にして逆上した。
彼女は狂ったようにユリウスの袖を引っ張る。
「ユリウス様ぁ! こいつら、私を馬鹿にしてますぅ! 早く首を撥ねてよ! あんた王様なんでしょう!?」
「うるさいっ!! 耳障りだ、黙れ!!」
「きゃあっ!」
ユリウスは血走った目で怒鳴りつけると、リリィを力任せに殴り飛ばした。
泥水の中に無様に転がったリリィは、一瞬何が起きたか分からず呆然とし、やがて泣き喚きながらユリウスに石や泥を投げつけ始めた。
「痛いっ! なにするのよこの甲斐性なし! 王様のくせに美味しいご飯ひとつ用意できないゴミのくせに!」
「貴様こそ、何一つ癒やせない役立たずの偽聖女だろうが! お前のせいで私はこんな目に遭ったんだ!」
薄暗い野営地で、泥にまみれながら互いを罵り合い、醜く取っ組み合う自称・国王と王妃。
かつて国を傾けるほどの贅沢を貪った二人は、今や底なしの惨めさと狂気の中にいた。
しかし数日後、彼らの元に「辺境伯軍が帝国軍を撃滅し、王都を解放した」という報せが届く。
それを聞いたユリウスは、己の罪も、国を捨てた恥もすっかり忘れ、歓喜の声を上げた。
「はっはっは! 見ろ、やはり天は私を選んだ! 辺境の野蛮人が私の代わりに帝国を追い払ってくれたぞ! さあ、私の王都へ凱旋だ!」
そして現在。
温かいスープと歓喜の声に包まれていた王都の広場に、場違いなラッパの音が響き渡った。
「道を開けい! 新たなる国王、ユリウス陛下の御帰還である!」
取り巻きの近衛兵に守られながら、ユリウスが胸を張って広場に現れた。だがその態度とは裏腹に彼の頭には、逃走中に脅して作らせた不格好な王冠が載せられ、汚れ切った服装は異臭を放っていた。
こうして、滑稽極まる喜劇が開幕した。
ユリウスは、炊き出しを配るセレスティアと、その傍らに立つレオンハルトの姿を認めると、尊大に笑いかけた。
「大儀であった、辺境伯! 私の王都をよくぞ取り戻してくれた。これまでの無礼は特別に許してやろう。さあ、その食糧を直ちに王城へ運び込み、私とリリィの食事を用意しろ! そして私を新たな王と崇め、ひれ伏すがいい!」
しかし。
広場は、水を打ったような静寂に包まれていた。
歓声は愚か、誰一人としてユリウスにひれ伏す者などいなかった。
ただ、冷ややかで、絶対的な『軽蔑』と『憎悪』の視線だけが、ユリウスに突き刺さっていた。
「な、なんだお前たち! 新王の命が聞こえんのか! 跪け!」
ユリウスが癇癪を起こして叫んだその時、一人のやせ細った老人が、手にした器を地面に叩きつけて前に出た。
「ふざけるなっ! 俺たちの家族が帝国兵に殺されそうになっていた時、てめえらはどこにいた!!」
「そうだ! 俺たちを見捨てて逃げ出したくせに、どの面下げて戻ってきやがった!」
「俺たちを救ってくれたのは辺境伯様だ! お前なんか、俺たちの王じゃない!!」
次々と湧き上がる市民たちの怒号。
それは、長年虐げられてきた民衆の、魂からの拒絶であった。
「き、貴様ら……不敬罪で全員死刑にしてやる! 衛兵、こいつらを斬れ!」
ユリウスが取り巻きに命令するが、近衛兵は市民の圧倒的な殺気と、背後に控える屈強な辺境軍を恐れ、一歩も動くことができない。
その無惨な光景を、セレスティアは氷のように冷たいアメジストの瞳で見つめていた。
「王とは、民を護り、民に支えられてこそ成立するものです」
凛としたセレスティアの声が、広場に響く。
「民を見捨てて逃げ出し、誰からも必要とされていないあなたに、王を名乗る資格などありません。……教えてくださいませ、ユリウス。あなたは一体、『誰の』王なのですか?」
「だ、誰の王だと……? 私は王家の血を引く、正当な……っ!」
ユリウスが血走った目で言い返そうとした、まさにその時。
彼に付き従っていた取り巻きの貴族の一人が、耐えきれなくなったように地面に這いつくばり、絶叫した。
「も、もう嫌だ! 辺境伯閣下、どうかお助けください! この男は、逃走中の馬車の中で、実の父親である前国王陛下を自らの手で刺し殺したのです!!」
「なっ……!?」
「き、貴様ぁっ! 余計なことを……!」
広場に激震が走った。
実の父親を殺し、国を捨てて逃げ出した男。もはや王太子どころか、ただの殺人鬼にして大罪人である。
「ひぃっ……! 嫌っ、人殺しなんて最低! 私は関係ないわ、ユリウス様が狂って勝手にやったんですぅ!」
広場がどよめく中、真っ先に動いたのはリリィだった。
彼女はわざとらしく悲鳴を上げると、泥だらけのドレスの裾を引きずりながらユリウスを力一杯突き飛ばした。そして、涙も出ていない目を擦りながら、セレスティアたちの方へ媚びるようにすり寄ろうとする。
「私、ずっと怯えていたんです! 恐ろしい人殺しに脅されて、無理やり連れ回されて……っ! お願いです、セレスティアお姉様、辺境伯様! か弱き聖女である私を保護して——」
「嘘をつくな、この性悪女がっ!!」
リリィの甲高い声を打ち消したのは、再びあの貴族の絶叫だった。
「お前があの時、血まみれの陛下のご遺体の前で何を言ったか忘れたとは言わせないぞ! お前は笑いながら『邪魔な老害が消えて好都合だ。これで私が王妃だ』と言い放ったんだ! お前が殿下を追い詰め、王殺しを唆したも同然だろうが!」
「っ……! う、うるさいうるさいうるさいっ!! 黙れ底辺貴族!」
決定的な事実を暴露され、リリィの顔から「か弱き被害者」の仮面が完全に剥がれ落ちた。
夜叉のように顔を歪ませ、金切り声を上げるその姿は、悪臭を放つ泥だらけの姿と相まって、もはや正視に堪えないほど醜悪だった。
「そうよ、この無能王子が甲斐性なしだからいけないのよ! 私は神に選ばれた聖女なの! 泥水なんてすするような身分じゃないのよ! さあ、あんたたち、私にひれ伏して綺麗なドレスと温かい食事を用意しなさい! 」
狂乱したリリィが叫ぶと、
「……黙れ、薄汚い人殺しが」
市民が、心底汚らわしいものを見る目でリリィを突き飛ばした。
泥だらけの石畳に無様に転がったリリィへ、今度は広場を囲む数千の市民たちから、怒りと軽蔑に満ちた声が一斉に叩きつけられた。
「何が聖女だ! 自分の国が焼かれている時に逃げ出した女が、どの口で言う!」
「お前たちが逃げたせいで、どれだけの子供が飢えて死んだと思ってるんだ!」
「こんな奴ら、もう王族でも貴族でもない! ただの泥棒と人殺しだ!!」
うねるような民衆の怒号。
それに恐れをなしたのは、ユリウスに従っていた近衛兵や取り巻きの貴族たちだった。彼らは市民たちの圧倒的な殺気と、微動だにせずこちらを見据える辺境軍の威圧感に完全に心を折られ、次々と武器を投げ捨てて地面に座り込んだ。
「お、俺たちは逆らえなかっただけなんだ! 許してくれ!」
「おい、何をしているお前たち! 武器を拾え! 私を守れ!」
ユリウスが裏返った声で命令するが、もはや誰一人として彼に従う者はいない。
「ええい、こうなれば私が自ら裁きを下してやる! どけ、下民ども!」
完全に狂気に呑まれたユリウスは、自らの腰の剣を抜き、市民たちに向かって振り上げようとした。
――だが、辺境伯レオンハルトが動くよりも早く。
「ふざけるなぁぁっ!!」
最前列にいた数人の市民が、手にしていた鍬や木の棒を振り上げ、ユリウスに飛びかかった。
「ぐはっ!?」
「き、貴様ら、王の体に触れるなどと、反逆罪で死刑だ!」
「誰が王だ! お前はただの親殺しの罪人だろうが!!」
怒り狂った民衆の波が、一斉にユリウスとリリィ、そして逃げ出した貴族たちへ殺到した。
もはや軍隊の出番すらなかった。長年虐げられ、飢えさせられ、ついには命まで見捨てられた民衆たちの怒りは、どんな武器よりも重く、容赦がなかった。
ユリウスの頭に乗っていた不格好な王冠は泥の中に踏み躙られ、リリィの泥だらけのドレスはさらに引き裂かれていく。
「やめろ! 痛い! セレスティア、助けろ! 私はお前の元婚約者だぞ!」
市民たちに地に押さえつけられ、無数の蹴りと石を浴びながら、ユリウスは無様に鼻水を垂らしてセレスティアへと命乞いをした。
しかし、豪奢な馬車の上に立つ完璧なる公爵令嬢は、その悲鳴に対して、温度を一切感じさせない絶対零度の瞳で見下ろすだけだった。
「……辺境の一領主の妻に過ぎない私に、他国の、それも『主権者たる民衆』の意志を止める権限などありませんわ」
「セレスティアァァッ!!」
「いやぁぁっ! 誰か、誰か助けてぇっ!」
セレスティアのその言葉は、彼らに対する完全なる「見捨て」の宣言であった。
軍による武力行使ではなく、彼らが最も見下していた「ただの市民」たちの手によって、無能な王太子と偽聖女は完全に制圧された。
縄で縛り上げられ、全身を泥と血にまみれさせながら地下牢へと引きずられていく彼らの姿には、かつての栄華の面影など微塵も残っていなかった。
「……終わったな」
レオンハルトが、騒動が落ち着き始めた広場を見渡し、静かに呟いた。
セレスティアは扇を閉じ、隣に立つ頼もしい夫へ、今度こそ心からの満面の笑みを向けた。
「ええ。偽りの王は消え、この国は本当の主……民衆たちの手に戻りましたわ。さあ、私たちは私たちの愛する領地へ、温かいお家に帰りましょう。レオンハルト様」
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