賢者と勇者は揺らがない
セレスティアの予測から数週間後。
辺境伯領の危惧は、最悪の形で現実のものとなりつつあった。長雨による日照り不足は農作物の生育を致命的に遅らせ、領境の森では帝国側から意図的に追いやられたと思われる魔物の群れが頻繁に目撃されるようになっていた。
領内全域に「防衛体制」を敷き、独自の食糧備蓄と防壁の強化を急ピッチで進めていたある日の午後。
辺境伯邸に、王都からの使者が数十名の近衛兵を引き連れて傲慢な態度で乗り込んできた。
「レオンハルト辺境伯! 並びに夫人! 王太子殿下ならびに国王陛下からの勅命である!」
応接間に通された使者は、ふんぞり返りながら仰々しく巻物を広げた。
「現在、王都は未曾有の食糧難に直面している。よって、辺境伯領が備蓄している小麦の八割を速やかに王都へ供出すること。また、国庫への特別貢献金として金貨十万枚を直ちに納めよ!」
使者の言葉に、控えていた辺境領の文官たちは一斉に殺気立った。
八割もの食糧を奪われれば、これから来る冬を前に領民が餓死してしまう。おまけに金貨十万枚という途方もない金額。これは要請などではない、あからさまな「略奪」であった。
しかし、上座に座るセレスティアは一切の動揺を見せず、冷ややかなアメジストの瞳で使者を見据えた。
「……王家からの御言葉、確かに承りました。ですが、その要求を呑むことは不可能ですわ」
「な、なんだと!? 王室の威信にかけて下された勅命だぞ! 貴様ら、王家に逆らって反逆罪に問われても良いのか!」
激昂する使者に対し、セレスティアは扇を口元に当て、ふっと冷酷な笑みを浮かべた。
「反逆も何も、我が領地にもはや王家の命令を聞く義務はありません。建国法第三条第七項……『外敵からの侵略の危機が明白であり、かつ王都からの防衛支援が見込めない場合、辺境領は独自の軍事権および徴税権を行使し、完全なる自治を認められる』。ご存知ありませんか?」
「っ……! そ、そんな昔の法律など……!」
「加えて」と、セレスティアは言葉を被せるように机の上に数枚の金貨を投げ出した。チャリン、と鈍い音が響く。
「国庫への特別貢献金とおっしゃいますが、王都は現在、金貨の金含有率を極秘裏に三分の一まで下げた悪貨を流通させていますね。そのような紙屑同然の通貨で経済を回そうとしている泥舟に、我が領民の血と汗の結晶である真の富を投げ捨てるような真似は、領主夫人として断じて許可できません」
図星を突かれた使者の顔から、サッと血の気が引いた。王家がその場しのぎで行っていた愚かな経済政策のすべてを、辺境にいるはずの女が完全に把握していたのだ。
「き、貴様ぁっ! 元公爵令嬢風情が、この場で斬り捨ててくれるわ!」
使者が逆上し、腰の剣に手をかけたその瞬間。
「――誰の妻を斬り捨てるだと?」
応接間の空気が、文字通り氷点下まで凍りついた。
ずっと無言でセレスティアの隣に座っていたレオンハルトが、ゆっくりと立ち上がったのだ。
黄金と夜明けの蒼の双眸が、猛獣のごとき殺気を放って使者を射抜く。
『鮮血の辺境伯』が放つ本物の威圧感を前に、使者と近衛兵たちは剣を抜くことすらできず、腰から崩れ落ちてガタガタと震え始めた。
「俺の領地で、俺の妻と領民を脅かした罪……生きて王都へ帰れると思うな」
「ひっ……! 待って、お待ちください、閣下!」
レオンハルトが恐るべき一歩を踏み出した時、セレスティアがそっと彼の腕に触れた。
「レオンハルト。その者たちの命を取る必要はありませんわ。彼らには、王都へ戻って『最後の仕事』をしてもらわなければなりませんから」
「最後の仕事?」
「ええ」
セレスティアは震える使者たちを見下ろし、氷のように冷たく言い放った。
「王太子殿下にお伝えなさい。『グランチェスター公爵家および辺境伯領は、現王家からの独立を宣言する。もはや我々は、自滅していく泥舟に関わるつもりはない』……と」
それは、実質的な王国との決別宣言であった。
「さあ、用が済んだらとっとと王都へ帰りなさい。あなた方が呑気に無心をしている間に、北の防壁にはすでに帝国の斥候が迫っているのですから」
セレスティアの言葉に弾かれるように、使者たちは悲鳴を上げながら逃げ帰っていった。
彼らが王都に到着する頃には、王国は本格的な飢饉と暴動によって完全に内部崩壊を起こしているはずだ。
「……セレスティア。ついに、賽は投げられたな」
「ええ。もう王都を気にする必要はありません。これからは、私たちの国を守る戦いですわ」
レオンハルトは愛する妻の細い肩を力強く抱き寄せた。
王都の呪縛から完全に解き放たれた辺境伯領は、大国・帝国の卑劣な侵略戦争を真正面から迎え撃つべく、準備と心構えを始めたのであった。
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