王都の綻び:忍び寄る物価高騰
そのころ、王都はさらに状況が悪くなっていった。
能吏が消えて、自分さえ良ければという役人ばかりになり、私腹を肥やし出せば、当然経済にも影響が出る。
最初の変化は、市場の小さな値上げから始まった。
「あれ? パンの値段、銅貨一枚上がった?」
「ああ。小麦の輸入手続きが止まってるらしくてな。品薄なんだとさ」
最初は「天候のせいだろう」と気に留めなかった市民たちも、月を追うごとに異常に気づき始める。
小麦だけでなく、肉、野菜、薪……あらゆる生活必需品の値段が、じわじわと、しかし確実に上がり続けたのだ。
事務処理を行う者がおらず、さらに稟議すべき責任者が曖昧で、他国と関税の調整が進まず、他国との交渉も極度に硬直化した官僚機構のせいで進まず、結果、公平公正な商売が出来なくなった王都の市場から、商人たちは寄り付かなくなっていった。
さらに、女好きの国王は相変わらず「ユリウスに任せてある」と後宮に引きこもり、莫大な浪費を続けていた。リリィもまた「聖女には美しい服が必要」と、毎日のように新作のドレスを作らせていた。
「おい、国庫が底を尽きそうだぞ! どうするんだ!」
「とりあえず、市民への税金を少し上げましょう。それから、警備隊や軍の兵隊の給料を三割ほどカットすれば……」
カケラほども自分たちの取り分を減らそうともせず、無責任で無能な側近たちの浅知恵による増税と予算削減。
これが、決定的な崩壊への引き金となっていった。
一方、辺境伯領では、大聖堂での美しい結婚式から数ヶ月。
辺境伯領は、かつてないほどの豊かさと平和な空気に包まれていた。
セレスティアとレオンハルトの私生活は、まさに愛に溢れたものだった。
朝はレオンハルトの大きく温かい腕の中で目覚め、共に朝食をとる。日中は領主と領主夫人として、息の合った連携で領地の政務や事業の拡大に打ち込み、夜は暖炉の前でその日の出来事を語り合い、報告したり相談したりしながら、穏やかな時間を過ごす。
そして甘やかな時間を過ごして安らかに眠る。
公爵家から連れてきた有能な文官たちや、王都から引き抜いた能吏も辺境の空気にすっかり馴染み、充実した仕事ぶりに目を輝かせていた。
そんな幸福な日々が永遠に続くかと思われたある日のこと。
執務室で書類に目を通していたセレスティアの元に、一通の密書が届けられた。
宛名には見覚えのある、しかし辺境の者ではない流麗な筆跡。その封を切って読み進めるうち、セレスティアの美しい顔から微笑みが消え、アメジストの瞳が険しく曇った。
「セレスティア? どうした、ひどく顔色が悪いぞ」
向かいのデスクで仕事を行っていたレオンハルトが、いち早く妻の変化に気づき、心配そうに歩み寄ってきた。彼は大きな手でセレスティアの肩を優しく包み込み、夜明けの蒼と黄金の双眸で手紙を覗き込む。
「……王都からか」
「はい。私が王城を去る際、わざと王都へ残してきた者からの密書です」
セレスティアは小さく息を吐いた。
「彼は私が最も信頼している能吏で、国政に残り、王都の状況を正確に把握して報告するよう命じてありました。……事態は、私が予想していた以上に深刻なようです」
手紙には、先の見えない物価高騰、完全に機能不全に陥った行政、そしてスラム街と化した王都の惨状が克明に記されていた。無能な王太子と男爵令嬢の浪費は止まらず、ついに暴動の一歩手前まで来ているという。
「……なんという惨状だ。いくら俺たちを追放した連中とはいえ、そこで暮らす罪のない市民たちが巻き込まれていると思うと、胸が痛む」
手紙の内容を聞いたレオンハルトは、領民を愛する彼らしい、痛ましい表情を浮かべた。しかし、セレスティアが顔を曇らせている理由は、王都の惨状に対するものではなかった。
「レオンハルト様。私が危惧しているのは、追い詰められた王家が『王室の威信』という名の理不尽な命令を下してくる可能性です」
「理不尽な命令、だと?」
「ええ。国庫が空となるであろう今、彼らが次に目を向けるのは、確実にこの豊かになった辺境伯領です。『国家の危機を救うため』という大義名分を振りかざし、莫大な資金や物資の無償供出を強要してくるでしょう」
セレスティアの冷静な分析に、レオンハルトの表情がサッと引き締まった。王都の馬鹿ども尻拭いのために、愛する領民たちの血と汗の結晶を奪われるわけにはいかない。
「……だが、それだけではないのだろう? 君がそこまで深刻な顔をする理由は」
レオンハルトの鋭い指摘に、セレスティアはこくりと頷いた。
彼女はデスクの引き出しから、分厚いファイルの束を取り出し、机の上に広げた。そこには、複雑な数式やグラフ、気象データなどがびっしりと書き込まれている。
「実はここ辺境に住まうようになってから、辺境領や公爵領から選りすぐった能吏たちを使い、一つのプロジェクトを進めておりました。気候変動、各都市の商業流通量、金融市場の金利動向、工業の生産率、さらにはダンジョンから産出されるモンスター資源の偏り……これら近年のありとあらゆるデータを集め、突き合わせていたのです」
セレスティアの細い指が、一つの折れ線グラフをなぞる。
「過去数十年分のデータと現在の数値を照らし合わせ、今後何が起こるかのシミュレーションを何度も重ねました。そこに、今回の密書がもたらした『王都および南部の農村の破綻状況』という最後のピースを当てはめた結果……一つの恐るべき可能性が浮上したのです」
セレスティアは一度言葉を切り、真っ直ぐに夫の瞳を見つめ返した。
「今年の冬、王国全土を巻き込む大規模な『飢饉』となる可能性が極めて高いです」
「き、飢饉だと……!?」
レオンハルトは息を呑んだ。
長雨による日照り不足のデータ、害虫の発生率と比例する特定モンスターの異常繁殖、そして王都の行政麻痺による治水工事の遅れと物流の停滞。これらすべてが、最悪の連鎖を起こそうとしているのだ。
「王都はすでに食糧の備蓄を帝国を始めとした他国に売り渡し、さらには金貨銀貨の金銀の含有率を低下させるなど、決してしてはならないことを、その場を乗り切るためだけに行っているようです。もしこの予測通り飢饉が起きれば、王都は完全に餓死者の街と化し、難民が領境を越えてこの土地にまで押し寄せてきます。
同然隣接する帝国がその混乱を見逃すはずがありません。と、言うより、帝国がこの絵図を描いていると私は見ます。
あなたには、あなたにだけは伝えたくない、でも、それは……」
「わかった。戦が始まるという事だな」
そう言って黙り込むレオンハルト
もう、ただの政争や王太子の没落という次元の話ではない。
国家そのものの存亡に関わる、未曾有の大災害とそれに付随する戦争の足音がすぐそこまで迫っているのだ。
「……俺はどうすればいい、セレスティア」
レオンハルトはまっすぐ妻を見つめ、真剣な面持ちで妻に尋ねた。彼には圧倒的な武力と領民への愛があるが、このような国家規模の災害予測に対する知恵はないと自覚している。だからこそ、己の全てを懸けて愛すると誓った、比類なき知恵を持つ妻に全幅の信頼を寄せていた。
セレスティアは、不安を振り払うように凛とした微笑みを浮かべ、夫の大きな手に自らの手を重ねた。
「恐れることはありませんわ、レオンハルト。すでに、食糧の増産と独自の備蓄計画は水面下で進めており、帝国への対策も考えてあります。王家からの不当な要求をはね除け、かつ我が領地の民を誰一人、傷付け、飢えさせないための『防衛戦』の準備をいますぐ始めましょう」
かつて王国の政務を一人で回していた頃の、鋭くも美しい光が宿る。
幸せな新婚生活から一転、迫り来る国家の危機に対し、辺境の若き夫婦は互いの手を固く握り合い、新たな戦いへと立ち向かう決意を固めるのであった。
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