武神への挑戦
最強の武人と、四千年の歴史を誇る拳法家。
彼らが放つ極限の殺気と闘志を前にしても、修羅界の王たる阿修羅は一顧だにしなかった。
「……ッ! なぜだ! 何故こちらを見ようともせんッ!」
烈魁皇が歯噛みし、ジークもまた怪訝に眉を潜めた。
無理もない。彼らは知らなかったのだ。目の前に座する阿修羅は、もはや闘争のみに明け暮れる「戦鬼」ではないということを。
遥かなる過去、如来の圧倒的な力と慈悲に触れた阿修羅は、すでに神仏に帰依していた。荒ぶる心を鎮め、修羅界を統率する守護神として、仏法を護る『神』の次元へと昇華していたのである。
彼にとって、己の武を誇示し、闘争を求めてやってくるジークたちは、血の気の多い若鳥の羽ばたき程度にしか見えていなかった。
『……騒々しい』
阿修羅の三つの顔が、ひどく面倒くさそうに吐息を漏らす。
そして、玉座に肘を突いたまま、六本ある腕の一つを、羽虫を追い払うかのように軽く振るった。
「ぬッ!?」
「な、なんや!?」
――フッ。
その瞬間、凄まじい重圧と血の匂いが充満していた修羅界の景色が、シャボン玉が弾けるように消滅した。
魔法陣も、詠唱もない。ただ『神の意志』による空間転移。
三人が次に目を覚ました時、彼らは青空の下、鬱蒼とした森に囲まれた『底無しの迷宮』の入り口に放り出されていた。
「こ、ここは……外か!? あのバケモノ、手ェ振っただけでウチらを地上に戻しよったで!?」
チャチャが地面に尻餅をつきながら叫ぶ。
呆然とするジークと烈魁皇の脳内に、低く、しかし荘厳な声が響き渡った。
『まだ足りぬ。もっと練り上げた上で挑みたまえ。待ちはせぬが、拒みはせぬ』
それは、修羅の王からの残酷なまでの「格付け」であり、同時に、遥かなる高みへと誘う道標でもあった。
「ふ、ふははは……! はーっはっはっはっ!!」
ジークは天を仰ぎ、これまでで一番の歓喜の声を上げて笑った。
「圧倒的じゃないか! あのまま挑んでいれば、私は大槍ごと宇宙の塵にされていただろう! まだ上がある……己を練り上げる余地がある! なんて素晴らしいことだ!」
「左様ッ!!」
烈魁皇もまた、悔しさを通り越して武者震いに全身を震わせていた。
「我が中国武術四千年の歴史をもってしても、神仏の域にはまだ届かぬと思い知らされたッ! だが、これで目標は定まったッ! 修羅の王よ、次は必ずやその顔をこちらへ振り向かせてみせようッッ!」
強大すぎる壁を前にして絶望するどころか、凄まじいモチベーションでさらなる鍛錬を誓い合う二人の戦闘狂。
「ほんま、どこまで行っても脳筋ゴリラやな、あんたら……」
チャチャは呆れ果てたようにため息をつきながらも、どこか安堵したようにアイテム袋を強く抱きしめた。
――数日後。辺境の街、冒険者ギルド。
「うひょぉぉぉぉぉぉ!! 金や! 金の山やぁぁぁ!!」
ギルドの応接室で、チャチャはテーブルに積み上げられた金貨の山にダイブしていた。
王都から資金を取り寄せたギルド長は、アイテム袋から無限に出てくる超高品質の魔石や、イフリートの核をはじめとするレアアイテムの数々に白目を剥きながらも、莫大な買取額を支払ったのである。
「はーっはっは! 一生遊んで暮らせる金やで! あのゴリラ二匹、ウチがピンハネしてる額にも全然気づいてへんし、最高や!」
金貨に頬擦りしながら、チャチャは固く心に誓った。
あの規格外の二人組に、これからもずっとしがみついていくことを。彼らがいれば、どんな危険なダンジョンも安全なピクニックに変わり、無限の富が転がり込んでくるのだから。
「チャチャ嬢、こんな所にいたのか」
ふと、応接室の扉が開き、ジークが姿を現した。
彼は笑顔のまま歩み寄ると、手の中の小さな包みをチャチャに差し出した。
「なんやこれ?」
「街の屋台で、美味そうな串焼きが売っていたのでね。君はギルドでの交渉が忙しくて、昼飯を食べていないだろう?腹が減っているのではないかと思ってな」
「え……」
包みを開けると、まだ湯気を立てている、チャチャの大好物である甘辛いタレの肉串が入っていた。
「あ、ありがとう……って、なんでウチの好きな味知ってんねん」
「最初の宿で、君がそれを一番美味しそうに食べていたからな。……それに、あの地獄のような迷宮で、君は逃げ出さずに最後まで我々を導いてくれた。義理堅い案内人殿には、これくらいの気遣いは当然さ」
ジークは屈託なく笑い、大きな手でポンポンとチャチャの頭を優しく撫でた。
その温かい振る舞い。
腐敗した貴族や薄汚い盗賊ばかりを見てきた彼女の人生において、損得抜きで純粋に自分を労ってくれる大人など、これまで一人もいなかった。
「……っ」
チャチャの顔が、ボッ! と林檎のように赤く染まる。
「な、なんやねん急に! 子供扱いすんなやこのゴリラ! 串焼きくらいでウチを誤魔化せると思ったら大間違いやで! 今日の晩飯は最高級レストランやからな!」
照れ隠しにキャンキャンと吠えながら、チャチャはそっぽを向いて串焼きに噛み付いた。
(せや、ウチはこいつらが金ヅルやから一緒にいるんや。こんなアホみたいに優しくて間抜けなゴリラ……誰かに騙されて身ぐるみ剥がされたら、ウチの取り分が減ってまうからな!)
金のためだ。絶対にそうだ。
必死に心の中で言い訳をするチャチャであったが、自分が惹かれているのは金貨の輝きだけではなく、ジークのその豪快で底抜けに優しい心遣いなのだということに――彼女自身は、まだ気づいていなかった。
「いいとも! 資金は潤沢にあるからな! さあ行こう!」
どこまでも真っ直ぐな武人と、異世界から来た拳法家、そして小さな案内人の旅。
魔王討伐という本来の目的などすっかり忘れ去られたまま、彼らの規格外な冒険は、さらなる高みを目指して続いていくのだった。
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