第十五章 最後の通信
二八六七年十月十九日。
ビチュニア辺境星域。
アニカ・バールは、コロニーの医療施設の小さな部屋にいた。窓の外に、帝国の特殊部隊の艦が三隻、軌道上に並んでいるのが見えた。
小さな光点。
星と見分けがつかない。
だがアニカにはわかった。
艦の配置パターン。
三角形の頂点を結ぶ降下包囲陣形。
彼女が二十六歳のときに書いた論文で理論化した配置の、帝国版アレンジ。
コロニーの管理者が走り込んできた。
「バール――いや、あなたの偽名は……とにかく。帝国軍です。軌道上に三隻。降下兵を展開しています。逃げてください。今なら裏の坑道から――」
「いい」
アニカは椅子に座ったままだった。
机の上に、端末と、父の義手の部品があった。
「私はもう逃げない」
「しかし――」
「もう逃げない、と言った」
管理者は立ち尽くした。
アニカの声には、拒絶の鋭さはなかった。
ただ、重力のような存在の確かさがあった。
やがて管理者は無言で出ていった。
アニカは端末を開いた。
暗号通信。
最後の通信。
「セリア」
打鍵した。
「私はもう逃げない。長い旅だった。あなたと戦えたことを、誇りに思う」
窓の外の光点が、少し大きくなった。
降下兵が大気圏に入り始めている。
「もう一つの人生があれば、友人として語り合いたかった。量子戦術論の続きを。戦争倫理の矛盾を。あの匿名フォーラムの議論の続きを」
指が止まった。
アニカは机の上の義手の部品を手に取った。
金属の筒。
小さな歯車。
父の体温はもう残っていない。
二十六年前に父が死んでから、この部品はアニカの体温だけを蓄えてきた。
「さようなら」
送信した。
引き出しから、小さなガラス瓶を取り出した。
無色透明の液体。
カルタージュの軍事アカデミーでは、捕虜になることを拒否するための毒薬が全士官に支給されていた。アニカはそれを三十年間持ち歩いていた。
瓶の蓋を開けた。
かすかな酸の匂い。
窓の外を見た。
帝国の降下兵の軌跡が、大気圏の上層で光っている。
それはまるで流れ星のように見えた。
アニカは笑った。
口許だけではない。
目も笑っていた。
右目の上の古い傷が、笑うと少し引きつれた。
瓶を口に運んだ。
液体は苦かった。
舌の奥が痺れ、それが喉に降り、胸に広がった。
冷たい。
父の義手と同じ種類の冷たさだった。
金属の冷たさ。
無機物の温度。
アニカは椅子の背にもたれた。
天井の照明が急速に遠くなっていく。視界の端が暗くなる。いや、暗くなるのではない。消えていくのだ。そう、量子トンネルを初めて通過したとき――あの一瞬の無感覚に似ている。視覚が停止する。聴覚が遠のく。
手の中の義手の部品を、最後まで握っていた。
金属の角が掌に食い込んでいる。
その痛みだけが、彼女の、最後まで残った感覚だった。
帝国の特殊部隊が医療施設に突入したとき、アニカ・バールは椅子に座ったまま死んでいた。
右手に、金属の筒を握っていた。
机の上に、メモが一枚。
〈私は自由人として死ぬ。誰にも捕らえられず、誰にも屈せず〉
特殊部隊の指揮官は、その遺体を長く見つめていた。褐色の肌。白くなった髪。右目の上の細い傷。小さな体。
この矮躯が、十六年間、帝国を震撼させたのだ。
指揮官は敬礼した。
命令にはなかったが、身体が自然にそう動いていた。




