第十三章 エフェソス
二八六五年。
セリアは外交使節として、アンドロメダ独立圏のエフェソス・ステーションを訪問した。中立宙域に浮かぶ巨大な回転式ステーション。人口五万人。銀河の交差点。様々な星系の人々が行き交う場所。
セリアの訪問目的は、独立圏との通商条約の更新だった。形式的な任務。元老院議員としての、政治的な仕事。
しかし、セリアには別の目的があった。
エフェソスは中立地帯だ。帝国の法が及ばない。カルタージュの法も及ばない。ここでなら——
暗号通信で、セリアはアニカに伝えていた。
〈エフェソスに行きます。十月十五日〉
〈公務ですか〉
〈はい。でも、自由時間もあります〉
長い間。
〈……会いたいですか〉
〈はい〉
さらに長い間。
〈私も会いたい〉
〈では〉
〈十月十六日。ステーションの回廊、第七セクション。文化展示区画〉
〈わかりました〉
◆
十月十六日。午後二時。
セリアはホテルの部屋で、鏡を見ていた。
銀色の髪。灰色の瞳。小さな体。軍服ではなく、民間の衣服。紺色のジャケットと白いシャツ。襟のボタンは、いつものように一番上まで留めてある。
手が震えていた。
十八年ぶりに会う。いや、一度だけ会っている。テラ・プリマ防衛戦のとき。セリアは小型艇の中から、アニカの旗艦を見た。距離は数キロメートル。顔は見えなかった。ただ、艦影だけ。
今日は、顔を見る。声を聞く。
セリアは深呼吸した。ホテルの部屋を出た。
エフェソス・ステーションの回廊は、大理石の床と高い天井を持つ、教会に似た建物だった。壁には各星系の工芸品が飾られていた。帝国の織物。シリウスの彫刻。アンドロメダのステンドグラス。
そして、カルタージュの陶器。
セリアはその陶器の前で足を止めた。赤い釉薬。幾何学模様。縁に小さな欠けがある。使い込まれた陶器。誰かの家から持ってこられたもの。
陶器の表面に、自分の顔が歪んで映っていた。
「きれいだろう」
背後から、声。
低い声。少し掠れている。年齢を重ねた声。
セリアは振り向いた。
アニカ・バールが立っていた。
褐色の肌に刻まれた皺。右目の上の傷は薄くなっている。黒い髪の半分が白い。民間の衣服。茶色のコートと黒いシャツ。軍服ではない。
二人は、三秒間、動かなかった。
回廊の照明が、天井の通気口から漏れる微かな振動音とともに、二人の顔を照らしていた。
「十八年ぶりですね」
セリアの声は、自分でも予想しなかったほど平坦だった。感情を抑えている。抑えなければ、声が震える。
「ああ。あなたも老けたな。私と同じように」
アニカが言った。口の端が動いた。笑い方を忘れた人間が、思い出そうとするときの動き。
「あなたも老けましたね」
セリアも、同じように口の端を動かした。逢うのは初めてだったが、お互いの肖像はニュースなどで何度も見ていた。
二人は笑った。小さな笑い。声にならない笑い。
「歩きませんか」
アニカが言った。
「ええ」
二人は回廊を歩き始めた。並んで。距離は一メートル。触れるには遠く、離れるには近い距離。
足音が大理石の床に響いた。アニカの靴は古い。踵が擦り減っている。セリアの靴は新しい。帝国の公務員に支給されたもの。
「カルタージュの陶器は美しい」
セリアが言った。
「帝国の織物も美しい」
アニカが答えた。
二人は、さっきまで立っていた場所を振り返った。カルタージュの陶器と、その向かいに飾られた帝国の織物。赤と青。土と空。
「もし戦争がなければ、これらは一緒に飾られていたかもしれませんね」
セリアが言った。
「もし戦争がなければ、私たちは出会わなかっただろう」
アニカが答えた。
「……それは、そうかもしれません」
二人はステーションの展望デッキに移動した。大きな曲面ガラスの向こうに、アンドロメダ銀河の渦巻きが見えた。二百五十万光年の彼方。肉眼では淡い光の帯。
展望デッキには他に誰もいなかった。午後の時間帯。ほとんどの訪問者は会議や商談に出ている。
セリアとアニカは、窓の前に立った。
「あなたに聞きたかったことがあります」
セリアが言った。
「ああ、何でも聞いてくれ」
「史上最高の戦術家は誰だと思いますか」
アニカは窓の外を見たまま答えた。
「古代地球のアレクサンダー大王。圧倒的な少数で大帝国を征服した」
「二番目は」
「ナポレオン。ヨーロッパ全土を震撼させた。だが、最後は自らの野心に滅ぼされた」
「三番目は」
アニカは初めてセリアの方を向いた。
「私自身と言いたいところだが……」
口元が緩んだ。本物の笑み。
「若くして艦隊を率い、十六年間も帝国を苦しめた。まあ、悪くない経歴だろう」
「では、もし私があなたを破らなかったら?」
アニカの目がセリアの目を捉えた。灰色の瞳。父親と同じ色だが、父親よりずっと温かい。
「その場合、私は自分を全ての戦術家の上に置くだろう」
刹那の沈黙。
「だが、セリア。あなたに負けたことは、私の誇りだ。あなたは最高の敵だった」
「敵、ですか」
セリアの声が、わずかに震えた。
「いや……最高の理解者、と言い直そうか」
展望デッキの空調が、微かなハム音を立てていた。ガラスの表面に二人の姿がうっすらと映っている。反射像は輪郭がぼやけて、年齢の線が消えていた。
「本当のことを言えば、最高の戦術家はあなたかもしれない。私の戦術を学び、それを超えた。教師を超える生徒こそ、真の天才だ」
「教師だなんて。私たちは一度も同じ教室にいたことがないわ」
「あるさ。私たちの教室は戦場だった」
セリアは窓に手をついた。ガラスは冷たかった。ステーションの外壁を通じて、宇宙の温度が伝わってくる。マイナス二百七十度。絶対零度に近い。
「私はあなたを倒すことで名声を得ました。しかし、その名声が私を縛り付けている。『ザマの英雄』。それだけが私の価値だと、帝国は言う」
アニカは首を横に振った。
「いいや。あなたの価値は、ザマだけじゃない。あなたは——」
言葉を探した。
「あなたは、戦争の中で人間性を失わなかった。トレビアのとき、あなたは私の撤退機動を褒めた。敵を称賛できる人間は少ない。ノラのとき、機雷で私の艦を八隻破壊したあと、あなたは謝罪した。戦術的には正しいことをして、それでも良心が痛んだ。それが——」
アニカの声が詰まった。
「それが、人間だ」
セリアは窓から手を離した。掌に、ガラスの冷たさが残っていた。
「あなたは自由ですか、アニカ」
アニカはポケットから、小さな金属の筒を取り出した。父の義手の部品。
「いいや。私も過去に縛られている。父との誓い。戦死した部下たち。失った祖国」
金属の筒を指で転がした。かちり。
「自由など、どこにもない」
「私もです」
セリアもポケットに手を入れた。何も入っていなかった。父の形見は、何もなかった。父は戦死した。遺体は宇宙葬で、星の間に散骨された。何も残らなかった。
「でも」
セリアが言った。
「もし、もう一度人生をやり直せるなら——」
「星のない、静かな場所で会いたい」
アニカが続けた。
「そう。そこで、友人として——」
「量子戦術論の続きを議論したい」
二人は、同時に笑った。
心置きなく、声を出して。
笑い声が、展望デッキに響いた。誰もいないデッキで。ガラスの向こうのアンドロメダ銀河だけが、静かにその笑いを見ていた。
笑いが止まった。
沈黙。
今度は長い沈黙だった。
二人は向き合った。アニカの方が背が高い。セリアは見上げる格好になった。
「セリア」
「はい」
「この十八年間、あなたと通信を続けたことは——私の人生で最も価値のあることの一つだった」
「私もです」
「もし——」
アニカの声が震えた。
「もし私たちが別の時代に生まれていたら」
「友人になれました」
「そして恋人にも——」
アニカが言いかけて、止まった。
セリアの目が大きくなった。
「……なれたかもしれませんね」
セリアが、アニカの言葉を引き取った。
二人の間の空気が、物理的に重くなった。
アニカが一歩、前に出た。
セリアも一歩、前に出た。
距離が縮まった。三十センチ。お互いの呼吸が聞こえる距離。
アニカの手が、ゆっくりと上がった。セリアの頬に触れた。褐色の指。皺が刻まれた指。温かい。
セリアの手も、上がった。アニカの手を包んだ。小さな白い手。
「アニカ」
「セリア」
「私は——」
セリアの声が震えた。
「私は、あなたを——」
言葉が出なかった。言葉にしてしまえば、それは現実になる。現実になれば、苦しみが増す。二人は敵だ。敵であり続けなければならない。帝国とカルタージュの。歴史の。運命の。
アニカが腕を開いた。
セリアが、その腕の中に入った。
抱擁。
民間の衣服越しに、体温が直接伝わった。アニカの体は骨ばっていた。栄養が足りていない。逃亡生活で痩せた体。セリアの体は小さかった。華奢だった。政治の重圧で削られた体。
二人とも、戦争と政治に削られた体だった。
しかし、今、この瞬間、二人の体は温かかった。
セリアの顔が、アニカの肩に埋まった。アニカの顎が、セリアの頭に載った。
呼吸が同期した。吸って、吐いて。吸って、吐いて。
展望デッキの窓に映る二人の反射像。一つの影のように見えた。
どれくらいの時間が経ったのか。
一分か。五分か。十分か。
時間は意味を失っていた。
セリアが、アニカの肩に顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「逃げてください」
「何?」
「帝国はあなたを追い続けます。どこまでも。私が——」
セリアの声が詰まった。
「私が、元老院で何度も主張しました。アニカ・バールの追跡を停止すべきだと。しかし、保守派が聞かない。彼らはあなたを——見せしめにしたいのです」
「わかっている」
アニカの声が、セリアの頭の上から降ってきた。
「だが私はもう、逃げることに疲れた」
「それは——」
「いいんだ。セリア。いつか捕まる。それがいつかは、わからない。でも、いつか」
セリアが顔を上げた。アニカと目が合った。
灰色の瞳と、褐色の肌の中の黒い瞳。
「私は——あなたに死んでほしくない」
セリアの目から、涙が一筋流れた。
アニカの指が、その涙を拭った。
「泣かないでくれ。私はまだ生きている」
「今は」
「ああ、今は」
アニカは微笑んだ。
「今を大切にしよう。未来は——未来が来たときに考えればいい」
二人は再び抱き合った。
今度は、もっと強く。
セリアの手がアニカの背中を掴んだ。アニカの手がセリアの頭を抱いた。
二人の体温が混ざり合った。境界が曖昧になった。どこまでが自分で、どこからが相手なのか、わからなくなった。
窓の外のアンドロメダ銀河が、静かに光っていた。二百五十万年前の光。何かが終わった後にも届き続ける光。
その光の下で、二人は抱き合っていた。
◆
三十分後。
二人は離れた。
セリアの目は赤かった。アニカの目も、少し潤んでいた。
「行かなければ」
セリアが言った。
「ホテルに戻らないと、使節団が心配します」
「そうだな」
アニカも頷いた。
「私も——宿に戻る」
「宿?」
「安宿だ。一泊十クレジット」
セリアは唇を噛んだ。
「お金が——」
「大丈夫だ。まだ少し残っている」
嘘だった。アニカの全財産は、三十クレジットしか残っていなかった。しかし、セリアにそれを言いたくなかった。
「アニカ——」
「大丈夫だ」
アニカはセリアの肩に手を置いた。
「心配しないでくれ。私は生き延びる。ずっと生き延びてきた」
セリアは頷いた。しかし、心配は消えなかった。
二人は展望デッキを出た。回廊に戻った。
回廊の分岐点。左に行けばセリアのホテル。右に行けばアニカの宿。
二人は立ち止まった。
「またいつか」
アニカが言った。
「またいつか」
セリアが繰り返した。
「次の人生で」
「星のない、静かな場所で」
アニカが一歩、セリアに近づいた。
セリアの額に、唇を押し当てた。
キス。額への、別れのキス。
セリアの目が閉じた。
アニカの唇が離れた。
目を開けたとき、アニカはもう右の回廊を歩いていた。背中だけが見えた。茶色のコート。白くなった髪。
セリアは左の回廊を歩き始めた。
振り返らなかった。
振り返れば、泣いてしまう。
回廊の壁に飾られた工芸品が、ぼやけて見えた。涙で。




