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席を立ったリュカは、店の裏側へと消えていった。何を企んでいるのかステラには判じかねたが、これまでリュカが突飛な行動を取ったことは一度もない。任せてくださいと本人も言っているので、ステラは特に心配することもなく、引き続きミアを見守ることにした。
しかしそうしている間にも、客の男はミアに難癖を付けるのをやめない。
「あーあ、髪も服もビールまみれだよ。嬢ちゃん知ってる?俺はこの土地じゃちょっとした有名人でね。逆らうとろくな目にあわないぞ。許してほしいなら、俺のいうことに大人しく従ったほうが身のためだ。まずはこの汚れた服、綺麗にしてもらおうか。ああ?馬鹿、誰が雑巾で拭けって言ったよ。跪いて舐めろ。獣人らしく、人間様に奉仕を…」
ミアはじっと目をつむって耐えているが、握りしめた拳は怒りと羞恥に震えている。いくらなんでも居たたまれない。
ステラが口を挟もうとした瞬間、背の高い獣人がミアの手を取った。
「うちの看板娘に手を出さないでもらえますか?」
大きな耳に、トラ柄の毛皮。鋭い眼光を男に向けるその獣人は、ミアを庇うように抱きしめた。
「大丈夫ですか、ミア様。この男の相手は、私がいたします」
「りゅ、リュカ様⁉なんですかその恰好!」
ミアのピンチに颯爽と現れたのは、獣人の恰好をしたリュカだった。店主に頼んで借りてきたのだろう、ありあわせの耳と毛皮としっぽは、どうにもアンバランスさが目立つ。ベースとなっているのが猫なのか、トラなのか、はたまた別の生き物なのか。だが即興にしては、案外似合っていた。
「なんだお前は!」
男と同じ感想を、ステラも抱いた。本当になにをやっているんだ。
「申し遅れました。本日よりこちらの店でお世話になります、リュカと申します」
普段着ている鎧を脱ぎ、体のラインが浮き出た毛皮をまとったリュカは、女から見ても惚れ惚れするようなスタイルの良さだった。魔法で獣人に変えられた王子様、というおとぎ話みたいな表現が似合うその姿に、ミアの口元は緩んでいる。
「ふん、なかなかの上玉じゃねえか。よし来い、相手をしてもらおうか」
「その前に…」
長く伸びた男の口ひげを、リュカが引っ張った。
「いたたたたたた!」
「ミア様への非礼を詫びて頂けますか?」
鼻先が触れるくらいの距離に顔を近づけて、リュカが男に言い放った。それは店員の客に対する態度ではなく、どこからどう見ても脅迫だ。あの距離でリュカの顔面を拝めるのは羨ましいが、男からすれば生きた心地がしないだろう。
「先ほど足をかけてミア様を転ばせたのも、わざとですよね。レディに対する礼節がなっていないのではないですか?よろしければ私が教えて差し上げましょう」
リュカが男の髭を引きちぎった。幾本もの口ひげが、束となって男の顔から離れていく。根本から綺麗にすっぽ抜けたらしく、毛穴から血の玉がいくつも浮かび上がっている。
「ああああっ!」
男が絶叫した。
リュカは毛束を床に落とし、ぱんぱんと手を払う。
「こ、こいつ、どういうつもりだ!」
「私はミア様をお守りしただけですが」
出血する顎を押さえて喚く男の頭を、リュカはわしづかみにした。
「あなたの血で私の毛皮が汚れてしまいました。綺麗にして頂けますか?ああ、違います。そんな汚い布で拭こうとしないでください」
掴んだ男の頭を、血で汚れた自分のふくらはぎ辺りに押し付ける。
「舐めて綺麗にするんですよね?お客様」
乱暴はダメだと言ったのはどの口だ。獣人に扮したリュカの蛮行に、ステラは言葉が出なかった。開いた口が塞がらないのはミアも同じらしいが、彼女の場合は呆れているのではない。潤んだ眼でリュカを見つめ、溢れ出る感激の情が抑えられないといったふうに、口が閉じられなくなっていた。
獣人の言いなりになって、情けなく舌を出す人間。獣人差別が蔓延る世の中で、滅多にお目にかかれない光景が今、目の前で繰り広げられていた。リュカの正体が人間であるということはまだバレていないようで、獣人の足を舐めさせられる男に、他の客たちは侮蔑の視線を送っていた。
ミアを侮辱した男の舌は、リュカにとっても汚らわしいもののはず。だが、男を見下すリュカの表情は、どこか恍惚としていた。
女豹。それが獣人に扮したリュカを表すのに最適な言葉だった。普段なら絶対にしないような表情が滲み出ているのは、付け耳としっぽによる心理的な変化なのだろうか。凛々しさと可憐さに、妖艶さが加わったリュカに対してステラは思う。女として勝てない、と。




