緊張
翌日、配役表を確認すると、金持の名前がなかった。挨拶を待つ間、黒井は不安に駆られたまま準備を進めた。稽古前の挨拶で、師匠から金持の足の具合がよくないため外した、と告げられた。判断したのは、徳兵衛の主遣いだそうだ。代役で、若手がお初の足遣いを仰せつかった。稽古は、滞りなく進んだが、黒井の緊張は増していった。本番では、黒井の足は終始落ち着きなく動き、三味線の音色が煩わしかった。天神森の段で徳兵衛とお初が自死する場面、黒井は舞台で吐いてしまった。直後に、幕が引かれて客席から見えなくなったが、黒井の嗚咽だけが響いていた。その後、黒井は倒れて旅館に運ばれた。
天日干しした布団の匂いが黒井の鼻をくすぐった。黒井が目を覚ますと、徳兵衛の主遣いが傍らに正座していた。
「起きたらだめですよ。あなたは病人なんですから」
「……ご迷惑をおかけいたしました」
喋ると口の中が酸っぱい。黒井は、自身の手で口を塞ぎ「すみません」と言って洗面所へ向かった。口をゆすいで部屋に戻ると、障子越しの光を背に受けた主遣いが姿勢を崩さずにいた。
「昨夜の煙草が響きましたか?」
「いいえ、煙草は慣れているのですが……」
「あの木のこと?」
「……」
埃が舞って光に反射した部屋に重苦しい沈黙が流れた。
「おいたはいけませんよ」
主遣いがそう告げると、黒井は視線を上げた。そうして、黒井は布団の上で姿勢を正し、主遣いと向かい合って「はい」と答えた。
「あの木の、花言葉の意味分かりますね? 掟が私たちを支えているのですよ」
「はい、忘れておりません」
「今日は、もうお休みなさい」
主遣いの一言に、黒井の胸がざわついた。安堵したはずなのに、焦りは消えない。主遣いが部屋を去ろうとしたとき、扉の外からノックの音が聞こえた。主遣いが扉を開けると金持が水をもってきた。
「黒井はん倒れたと聞いたので」
金持の声に、黒井は指先に力を込めた。動揺が扉越しに伝わってきた。
「黒井さんならもう休まれました。私が看たのでお水だけ受け取ります」
主遣いは即座に扉を閉めて、黒井のいる部屋に戻って、水を卓上に置くと何も言わず部屋を出ていった。
「はっー。なんやねん、ほんま」
緊張の糸がほぐれた黒井は、思い切り布団に寝転がり、金持が持ってきた水を一口飲んだ。水差しに目をやると、いくつもの水滴が卓上に零れ落ちていた。
「金持……」
水差しから氷が崩れる音がした。手のひらの匂いを嗅ぐと、微かに竜胆の匂いがした。遠くで低い雷鳴が耳に届いた。
「……」
黒井は目を閉じて、あの無理心中をした二人を思い出した。厠に行ったあの夜、桜の木の下で匂い袋を交換していた二人が、何を話していたのか今なら思い出せる。微かに香る竜胆が、黒井が奥に閉じ込めていた記憶を思い出させた。
「心中しよう」
風に乗って、その言葉だけが耳に届いた。その時、竜胆の匂いも微かに運ばれていた。
二人は確かにそう言っていた。周りの言っていた、無理心中ではなかったのだ。あの雷の日から黒井は記憶を閉ざしていた。
「二人の結末……」
「結末?」
その声に、黒井は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。その声の主は金持だった。
「なにしてはるん?」
「何もあらへん。鍵が開いとったから入っただけや」
黒井は、竜胆の匂いを纏った金持を見て、肩から力が抜けるのを感じた。金持は、黒井の顔色を窺って、目を細めた。
「なんや、本番で倒れた聞いたから心配で見に来たんやけど、大丈夫そうやな」
「脱水症状があるんやけど……」
「そら、大変やな。水をもってきます」
金持が注いだ水を飲んだ黒井は、金持の手を見た。
「どないしたん?」
「あぁ、今日は配役表に名前がなかったのに、竜胆の匂いがするなと思って」
「言い伝えや」
金持は、静かに笑って答えた。




