↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
匂い  作者: 青風爽
5/8

緊張

 翌日、配役表を確認すると、金持の名前がなかった。挨拶を待つ間、黒井は不安に駆られたまま準備を進めた。稽古前の挨拶で、師匠から金持の足の具合がよくないため外した、と告げられた。判断したのは、徳兵衛の主遣いだそうだ。代役で、若手がお初の足遣いを仰せつかった。稽古は、滞りなく進んだが、黒井の緊張は増していった。本番では、黒井の足は終始落ち着きなく動き、三味線の音色が煩わしかった。天神森の段で徳兵衛とお初が自死する場面、黒井は舞台で吐いてしまった。直後に、幕が引かれて客席から見えなくなったが、黒井の嗚咽だけが響いていた。その後、黒井は倒れて旅館に運ばれた。


 天日干しした布団の匂いが黒井の鼻をくすぐった。黒井が目を覚ますと、徳兵衛の主遣いが傍らに正座していた。

 「起きたらだめですよ。あなたは病人なんですから」

 「……ご迷惑をおかけいたしました」

 喋ると口の中が酸っぱい。黒井は、自身の手で口を塞ぎ「すみません」と言って洗面所へ向かった。口をゆすいで部屋に戻ると、障子越しの光を背に受けた主遣いが姿勢を崩さずにいた。

 「昨夜の煙草が響きましたか?」

 「いいえ、煙草は慣れているのですが……」

 「あの木のこと?」

 「……」

 埃が舞って光に反射した部屋に重苦しい沈黙が流れた。

 「おいたはいけませんよ」

 主遣いがそう告げると、黒井は視線を上げた。そうして、黒井は布団の上で姿勢を正し、主遣いと向かい合って「はい」と答えた。

 「あの木の、花言葉の意味分かりますね? 掟が私たちを支えているのですよ」

 「はい、忘れておりません」

 「今日は、もうお休みなさい」

 主遣いの一言に、黒井の胸がざわついた。安堵したはずなのに、焦りは消えない。主遣いが部屋を去ろうとしたとき、扉の外からノックの音が聞こえた。主遣いが扉を開けると金持が水をもってきた。

 「黒井はん倒れたと聞いたので」

 金持の声に、黒井は指先に力を込めた。動揺が扉越しに伝わってきた。

 「黒井さんならもう休まれました。私が看たのでお水だけ受け取ります」

 主遣いは即座に扉を閉めて、黒井のいる部屋に戻って、水を卓上に置くと何も言わず部屋を出ていった。

 「はっー。なんやねん、ほんま」

 緊張の糸がほぐれた黒井は、思い切り布団に寝転がり、金持が持ってきた水を一口飲んだ。水差しに目をやると、いくつもの水滴が卓上に零れ落ちていた。

 「金持……」

 水差しから氷が崩れる音がした。手のひらの匂いを嗅ぐと、微かに竜胆の匂いがした。遠くで低い雷鳴が耳に届いた。

 「……」

 黒井は目を閉じて、あの無理心中をした二人を思い出した。厠に行ったあの夜、桜の木の下で匂い袋を交換していた二人が、何を話していたのか今なら思い出せる。微かに香る竜胆が、黒井が奥に閉じ込めていた記憶を思い出させた。

 「心中しよう」

 風に乗って、その言葉だけが耳に届いた。その時、竜胆の匂いも微かに運ばれていた。

 二人は確かにそう言っていた。周りの言っていた、無理心中ではなかったのだ。あの雷の日から黒井は記憶を閉ざしていた。

 「二人の結末……」

 「結末?」

 その声に、黒井は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。その声の主は金持だった。

 「なにしてはるん?」

 「何もあらへん。鍵が開いとったから入っただけや」

 黒井は、竜胆の匂いを纏った金持を見て、肩から力が抜けるのを感じた。金持は、黒井の顔色を窺って、目を細めた。

 「なんや、本番で倒れた聞いたから心配で見に来たんやけど、大丈夫そうやな」

 「脱水症状があるんやけど……」

 「そら、大変やな。水をもってきます」

 金持が注いだ水を飲んだ黒井は、金持の手を見た。

 「どないしたん?」

 「あぁ、今日は配役表に名前がなかったのに、竜胆の匂いがするなと思って」

 「言い伝えや」

 金持は、静かに笑って答えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。