湯冷め
風呂場に着くと、金持が使ったままの石鹸が転がっていた。黒井は金持の石鹸で体を洗い、湯船に浸かった。湯気のこもる浴室は黒井の身体を熱くさせた。手の甲を嗅いでみると、レモンとベルガモットが黒井の鼻腔を満たした。金持と同じ匂いだ。陰鬱な日々に、金持だけが日差しのようだった。黒井にとって、影が破られる夜、金持の抱擁が安らぎを与えた。しかし、この関係が明るみに出れば、二人ともこの世界で生きてはいけない。
「僕は、選べへんよ……」
蛇口に溜まった水滴が湯に落ちた。その音で黒井は、閉じかけていた目を開け、風呂場から出た。
「湯冷めや、湯冷め」
あの夜の出来事に、黒井はまだ答えが出ずにいた。部屋を出て、庭園を見渡せる廊下に腰を下ろす。喫煙や酒が楽しめるその場所で、黒井は秋の夜風に吹かれていた。
「黒井さん、おはようございます」
廊下の奥から、徳兵衛の主遣いが声をかけた。
「おはようございます」
黒井は、姿勢を正して頭を下げた。
「今日の稽古、生成みたいな顔になって、怖かったでしょう」
「般若になる前で、助かりましたよ」
主遣いは、目を伏せて煙草を口にした。そのとき、黒井は笑ってマッチを擦り、主遣いの煙草に火をつけた。
「今日は、風が冷たいですね」
「そうですね。……でも、こういう風景が見られる旅館はそうないですから。お互い湯冷めを楽しみましょう」
「黒井さん、知ってますか? クロガネモチって木……」
「いいえ?」
「家にある木……晩秋には赤い実が出てくるんです」
「赤い実……」
「そう、赤い実を野鳥が食べていくんですよ……でも去年は、野鳥がどんなに取ろうとしても取れなかったんです。他の実もそうです……それで、妻が気になって調べたら、クロガネモチは、商売繁盛で縁起木として知られているんです。でも、花言葉まで調べたら、取れない理由のようだなと思ったんです」
「……」
黒井に花言葉の意味は分からなかった。だが、主遣いが煙を吐いたとき、口元をこわばらせた。肩には力が入り、太ももの上で拳を握った。
主遣いは自身の煙草を黒井の前に差し出した。黒井は手の震えを押し殺し、一本の煙草を取った。主遣いは、黒井の煙草に火をつけて、「それでは」と言い残してその場を後にした。
黒井は、大きく息を吸い、煙草の煙を肺に溜めて、ゆっくりと口から逃がした。後に残るのは、煙草の煙と黒井だけだった。




