言い伝え
脱衣所の開く音がして、廊下が軋んだ。
「いいお湯でしたわ、黒井はん」
黒井は金持の声にはっとして、抱きしめていた羽織を慌てて畳に置いた。
「あぁ。上がったんだね」
「何してはったの?」
「いや、何も……」
黒井は金持の視線を感じ、金持から目を逸らした。頬を火照らせた金持は、「ふぅん」と言った後、黒井が畳んだ羽織を着た。
「あの朝方言うてはった、竜胆の香……」
金持がそう言うと、黒井は目を見開き金持を見た。
「香りがどうした」
「今でも香るん?」
「香るんじゃないかい。君が持っていた匂いだろう?」
「持ってはおらんよ、匂いがつくんや」
「どこから?」
「人形の女形からや」
「人形から……」
金持は眉を寄せた。
人形の女形から竜胆の匂いがするのは、亡くなった足遣いの呪いだという言い伝えが黒井の一門にはある。人形や相手への思いが強ければ強いほど竜胆の匂いも強く香る、と言われている。この言い伝えを信じているのは、入門して日が浅い弟子たちだ。主遣いと足遣いが亡くなった日から、稽古場では竜胆の匂いがしばらく消えなかった。しかし、現場を見た黒井だけは、足遣いが長年その女形の人形の足を遣っていたため、匂いが残っているのだと思っている。
「あの話ならやめてほしいですわ」
壁に身を寄せながらも、金持の足取りは良くなっていた。それを見た黒井は、もう自分の部屋に戻りなさい、と言って自身も風呂の支度をしようと身をかがめた。そのとき、また背中に体温を感じた。やがて、肩から降りた手が黒井の頬を撫で、金持が顔を擦り寄せる。
「ほんまですよ、言い伝え」
「想いが強ければ強いほど、竜胆の匂いも強くなる……」
「ほんまですよ」
金持が黒井の耳元で呟くと、背中から離れた。
「部屋に戻ります。黒井はんもええ湯浸かってください」
黒井の部屋に、換気扇の音だけが残った。




