あの日
※残酷な描写がございます(心中描写)。無理な方はこの作品を閉じてください。
黒井は水道の蛇口とお湯の蛇口を交互に捻り、湯加減を測った。
「昨日の夜のこと、どう思うてはりますか……か……」
昨日の夜は部屋が暗く、枕もとの明かりが金持を浮かび上がらせていた。足元だけは闇に沈んでいた。ただ、金持の体温だけが黒井の肌を撫でていた。
「昨日の夜は、お互いに痛かったからか……」
さっき、金持は何を言おうとしたのだろう。
黒井は湯船に手を浸した。少し熱い。濡れた手を自身の裾で拭いたとき、ふと、金持から漂っていた匂いを思い出す。匂いのない花だと、金持は言っていた。黒井は自分の手のひらを鼻先に近づけ、竜胆の匂いを思い出す。湯気のほかには何も匂わない。匂いは無くても、あの夜を忘れたわけではない。ただ、口にしたら今までのようには戻れない気がした。
「黒井はん」
部屋から金持の声がした。
「もう少し待っていなさい」
黒井は蛇口を閉めた。
黒井が部屋に戻ると、無理に風呂の支度をした金持が足を抱えうずくまっていた。
「大丈夫か」
「あかんみたいですわ。黒井はん、悪いけど風呂まで運んでくれはりませんか」
黒井は、背を向けてかがんだ。
「えっ、おんぶは恥ずかしいですやん」
「恥ずかしい、あらへん。風呂場までや」
「お言葉に甘えますわ」
背に乗った金持は、黒井より軽かった。太ももの感触は細く、頼りなかった。湯気の立つ風呂場に着き、金持を下ろした。背中のぬくもりがなくなったと同時に、金持はふいに、風呂釜のふちに座った。
「あるけるやないか」
「洗ってや」
「……えっ」
「足、洗ってや」
換気扇の音が響く風呂場で、黒井は固まった。金持から出た一言が黒井の身体を封じたかのようだった。湯気に火照りだした金持の頬が、色づいて見えた。金持の着物の裾がはだけ、白い肌が見えだした。黒井は、視線を外した。怪我をしていない片方の足がゆっくりと黒井の太ももの上に置かれた。冗談はよせと黒井が顔を上げると、鏡の中の金持は横顔は悪戯心に満ち溢れていた。
「何を言うてるんや? 歩けるんやったら自分でやり」
金持は黒井の言葉を無視して、無言で石鹸はそこだ、と指を差した。黒井は、自身の奥から上ってくる熱を感じ、あの夜を思い出した。前髪を下からかき分けられ、そのまま両頬を包み込んだ。引き寄せられた先は、金持の鎖骨だった。唇を合わせてと言わんばかりの金持の表情も笑っていた。
「黒井はん、洗ってや。足が痛うて、足遣いもできひんようになります」
何かに急かされるように、黒井は石鹸を泡立てた。黒井の太ももにある頼りない足を、石鹸で洗い始めた。レモンとベルガモットの泡が金持の白い肌の上を何度も滑る。金持の足首から指先までゆっくり往復する。
「黒井はんになりたいんです」
「僕?」
「……冗談です。次は、こっちもお願いできますやろか?」
黒井の着物は、泡で濡れ始めていた。その上に痣のある足が乗った。黒井の眉間にしわが寄っている。怒っているのか、困っているのか自分でも分からない。
「痛ないんか」
「ちょっとだけや」
「ちょっとだけやったら我慢しい」
「黒井はんは、乱暴なお人やなぁ」
金持はそう言って笑った。黒井は返事をせず、手のひらで泡を作った。足の甲からくるぶしへ、そこから細い脹脛へと手を動かす。思っていたよりも骨ばっていた。
「もうええですよ」
黒井が顔を上げると、金持は頬を赤らめ、目元にしわを寄せて笑っていた。
黒井は、あほ、と小さくつぶやいた。その恍惚とした表情を見たとき、痣に指を沈めた。金持は「痛い」と言って体をのけぞらせた。
「ほんま、乱暴なお人」
「あとは自分でおやり」
「はい、ありがとうございました」
蛇口のお湯を出して手を洗っていたとき、鏡越しで金持の口が動いた。水音で何を言っていたかわからなかったが、黒井にはそれが、「本当になりたい」と言っているように見えた。
金持が風呂に入っている間、黒井は竹の影を揺らす月明りが射した部屋で、金持が乱雑に脱いでいった羽織を整えていた。羽織から立つ匂いは、やはり竜胆だった。
「……竜胆」
黒井は、文楽の世界に入りたての頃を思い出した。
黒井の入った一門は、集団での生活を強いるところだった。ある夜、黒井が厠へ行く途中、二人の遣い手が桜の木の下で寄り添っているのを見かけた。遠くにある人影は、お互いの何かを交換していた。次の日になると、女形からお香の匂いがしだした。
「母のようなやわらかな香りがします」
暖かな春の日差しが射す縁側で、黒井は言った。
「それは竜胆の香りだよ。ある人と匂い袋を交換したんだ。私は鈴蘭を渡し、ある人は竜胆をくれた」
主遣いは目を細めた。
「その人はいつも足元を支えてくれる人でね」
その主遣いが微笑みながらそう答えた。あの夜、桜の木の下で寄り添っていたのはこの主遣いだ。黒井がそう確信したとき、今、手にしている羽織から立つ竜胆の香りが、落ち着きを与えていた。
「あの雷の日も、この匂いだったな……」
黒井は、金持の羽織を抱きしめて、匂いを深く吸った。遠くで水音が止まった。
雷鳴が轟く豪雨の日、匂い袋を交換した主遣いと足遣いが稽古場で倒れていた。朝稽古の準備のため、黒井は一人で稽古場に着くと、二人の姿があった。近づくと、足遣いの懐から竜胆の袋が開き、中身が零れていた。その匂いが濃く漂っていた。主遣いに目をやると片手には、鈴蘭の匂い袋が握られていた。黒井が尊敬していた二人だったからか、そのまま動けなかった。後に、女形の左遣いから聞いた話では、無理心中だったそうだ。
「やはりか」
「あの二人、そういう関係だったか」
周囲の弟子たちは囁き合った。二人の関係性は話題になり、一門では稽古以外での親密なやり取りが禁止になった。黒井もその掟を重々承知の上だったが、金持が一門に入って以来、黒井自身が変わってしまった。
脱衣所の開く音がした。




