匂い
「竜胆……」
黒井は、一面にしわが広がる敷布団の横で胡坐をかきながら小さくつぶやいた。金持から微かに漂う香りに、黒井は覚えがあった。
「朝日がおいでになる前に部屋に戻ります。舞台稽古、よろしゅうお頼み申します」
支度を終えた金持が洗面所から出てきた。乱雑にはがれた布団を整えながら、黒井に告げる。
「金持、君のその匂いは竜胆かい?」
「よう、分かりますね、竜胆は匂いのあれへん花ですよ?」
「あぁ、昔嗅いだことがある。布団にも染みついたな」
「人形の女形についとった匂いかもしれまへん、嫌でしたか?」
「嫌やあらへんよ」
朝方の冷気が部屋を包んでいた。日の出を迎えた部屋は誰もいなくなり、静まり返った。この巡業で、二人の関係は変わってしまった――
黒井は文化センターに着くと、配役表を確認した。そこには、黒井が男役の左遣い、金持が女役の足遣いと書かれていた。今日も二人は、別々の役を担いながら、同じ舞台に立つ。稽古は太夫の語りを合図に物語が進んでいった。しかし、徳兵衛が群衆に囲まれて殴られる場面で、それぞれの遣い手同士がぶつかり、舞台の動きが止まる。
「そこまで」
徳兵衛の主遣いが声を上げた。
「私たちが近松の作品を上演するということは、近松を演ずるのと同じですよ」
その声に、黒井は思わず背筋を伸ばした。隣にいた金持は口元を引き締めていたが、その目は主遣いの険しい顔を見ていた。般若のようだ、と黒井は思った。その後は、最初から通しで稽古をやり直し、夜には本番を迎えた。
黒井が帰り支度を終えたとき、お初の主遣いが声をかけた。
「左遣い十年て言うけどな、皆が務め上げるわけやあらへん。いずれあんたも、主遣いになるんやろな」
「こそばゆいこと言わないでください」
主遣いは笑って宿に戻っていった。黒井はその背中を見送った。先程まで人の声で満ちていた楽屋には、片づけをする者の衣擦れだけが残っていた。
黒井が宿へ向かう途中、片足を引きずる金持の姿があった。
「どうした、金持」
「あぁ、黒井はん」
「稽古でも気になっていたが、君のその足、大丈夫か」
黒井が声をかけた途端、金持は常夜灯の基壇に座った。
「黒井はんが声かけてくるまでがんばろう思っとりました……会えてよかった」
「今日、痛めたのかい? 足を見せて」
「この前の、新口村で主遣いに合わせて足を動かしたときに、くじきましてね。今日の本番で再び痛み出しましたわ」
金持の足は、白く細い線を描いていた。黒井が金持の裾を持ち上げていくと、常夜灯に照らされた脛の白さが浮かんだ。足首へ視線を移すと、足袋の下から包帯がのぞいていた。その部分を指の腹でそっと押さえると、「んっ」と金持が息を詰めた。
「痛いだろうけど、状態を確認する。いいね?」
「……」
黒井が足袋を脱がせ、包帯をほどくと、紫色の痣が白い肌を侵食していた。触れると熱い。
「こんな状態ですわ。これじゃ、足遣いもろくにできひんようになりますなあ……」
「何を言う。じっと耐えた者が、最後には人形を遣いこなす。心配なさんな」
金持の腕を取り、黒井の肩へ回した時、また竜胆の匂いがした。
「えらい色しとるで。今日の風呂、大変やな。僕のとこで使っていきや」
「……おおきに。ほな、お言葉に甘えさせてもらいますわ」
黒井の部屋は、角部屋で窓を開けると隣の竹林の音が響く。
「お風呂を沸かしてくるから待っていなさい」
黒井が金持を座らせようとすると、胸に金持が寄りかかった。
「昨日の夜のこと、どう思うてはります?」
「どうして急に……」
「俺は、」
黒井は金持の肩を抑えた。指先に力が入る。
「待っていなさい」
そう告げると、金持の返事を待たず風呂場へ向かった。




