第七話 恐怖を知る者
翌日。
ぼくは一歩も宿の外へ出られなかった。
食事も、ほとんど喉を通らない。
外から聞こえてくる人々の声や、馬車の音さえ、遠い世界の出来事のように感じられた。
冒険者組合へ行かなければ。
そう思うのに、身体が動かない。
森へ行くのが怖い。
魔物を見るのが怖い。
誰かとパーティを組むのも怖い。
そして何より、また誰かが死ぬのを見るのが怖かった。
その日の夕方、宿の主人がぼくの部屋を訪ねてきた。
「サイカという子がここに泊まっていると聞いたんだが」
聞き覚えのある女性の声だった。
扉を開けると、ハーモとニーが立っていた。
「少し話せるかな?」
ぼくは、黙って二人を部屋に招き入れた。
椅子に座ると、ハーモが真っ先に口を開いた。
「昨日のことだけどさ。君は、どうしてあんな森の奥まで行ったんだい?」
ぼくは思わず肩を震わせた。
「……あと一匹、トゲウサギを倒したら帰るつもりでした」
「それで?」
「みんなが、もう少し奥へ行こうって……。ぼくは危ないから戻ろうって言いました。でも、聞いてもらえなくて……」
言いながら、胸が苦しくなった。
「それでも、君は一緒に行ったんだね」
ニーが静かに言った。
ぼくはうつむいた。
「……はい」
「どうして?」
「それは……」
言葉が出てこなかった。
三人が先へ行ってしまったから。
一人になるのが嫌だったから。
せっかく誘ってもらったのに、断るのが申し訳なかったから。
どれも本当だった。
「ぼくも、みんなと同じくらい冒険者のことを知らなかったんです」
やっと、それだけ言えた。
ハーモは腕を組んだ。
「そうだね。君たちは、全員が知らなすぎた」
その言葉に、ぼくは顔を上げた。
「魔物の強さも、森の危険も、自分たちの実力も。何も分からないまま、四人なら大丈夫だと思い込んでいた」
ハーモは淡々と続けた。
「トゲウサギを四匹倒せた。それは立派なことだよ。でも、だからといってレッサーウルフにも勝てるわけじゃない。魔物にはそれぞれ強さがある。群れで狩る魔物もいる。自分たちの知らない危険が、森にはいくらでもあるんだ」
「……はい」
「そして、君にも問題がある」
胸が痛んだ。
けれど、ぼくは黙って聞いた。
「危険だと思ったなら、もっと強く止めるべきだった。止められないなら、少なくとも自分だけでも引き返すべきだった。仲間に嫌われることを恐れて、危険な場所についていく必要はない」
ぼくは唇を噛んだ。
「でも……仲間を見捨てて逃げるなんて……」
「見捨てることと、無謀な戦いを避けることは違う」
ニーが言った。
「君が一緒に死んでいたら、誰が三人のことを伝えられた? 誰が次に同じ失敗をする冒険者へ警告できた?」
「……っ」
「冒険者は、仲間を助ける仕事でもある。でも、自分が生き残ることも仕事のうちなんだよ」
ぼくは、何も言い返せなかった。
ハーモは少しだけ表情を和らげた。
「誤解しないでほしい。君だけが悪いと言っているわけじゃない。ヤタたちにも責任があった。だけど、彼らが死んだ事実は変わらない」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「無知は死を早める。過信は死を呼び込む」
ハーモは、ぼくの目をまっすぐ見た。
「冒険者を続けるなら、もっと知識をつけな。魔物のこと、地形のこと、戦い方、撤退の判断。覚えることはいくらでもある」
「……はい」
「それでも、冒険者を続けたい?」
その問いに、ぼくはすぐに答えられなかった。
続けたい。
ずっと憧れていた。
でも、怖い。
また同じことが起きたら?
また誰かが目の前で死んだら?
今度こそ、自分も死んでしまうかもしれない。
「もし恐怖に囚われて、もう外へ出られないなら、故郷へ帰って畑仕事をするのも一つの道だよ」
ニーは穏やかな声で言った。
「それは逃げでも、恥でもない。生き方を選ぶのは君自身だから」
ぼくは、自分の手を見つめた。
小さな傷が残っている。
この手で、ぼくは誰かを助けられると思っていた。
でも、現実は違った。
回復魔法だけでは、どうにもならないことがある。
魔物の前では、夢も希望も、何の役にも立たないことがある。
「……少し、考えさせてください」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
二人はうなずき、部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、ぼくは長い間、椅子に座っていた。
村へ帰れば、父さんも母さんも喜ぶだろう。
畑仕事をして、穏やかに暮らす。
それも、きっと悪くない。
けれど。
ぼくは、あの日のことを思い出した。
森で迷子になったぼくに、手を差し伸べてくれた冒険者。
あの人がいたから、ぼくは無事に村へ帰れた。
そして昨日。
ハーモとニーが来てくれなかったら、ぼくも死んでいた。
冒険者は危険な仕事だ。
それでも、誰かを助けられる仕事でもある。
ぼくは、ベッドから立ち上がった。
まだ足は震えていた。
恐怖は消えていない。
でも、それでいいのかもしれない。
怖いなら、怖くなくなるまで待つのではなく、怖くても生き残る方法を学べばいい。
「……ぼくは」
声に出してみた。
「ぼくは、まだ冒険者になりたい」
その言葉を口にした瞬間、ほんの少しだけ、前へ進めた気がした。




