第八話「山の町の夜」
アルシェラ高原の麓にある町へ着いたのは、それから四日後だった。馬車を降りた瞬間、マリアナは大きく息を吸った。
「空気が違いますわ」
冷たい。けれど、不思議と心地よかった。平地よりもずっと澄んだ空気が肺へ入り、鼻の奥に針葉樹の香りが残る。町は山の斜面に沿って造られていた。灰色の石を積んだ家、急な坂道、窓辺には赤や黄色の小さな花。屋根には冬の雪を落とすためなのか、どれも急な傾斜がついている。遠くでは羊の群れが斜面を歩き、その首についた鈴が風に乗って聞こえていた。
「まぁ……」
マリアナはゆっくり町を見渡した。
「ここも旅行記にはほとんど載っておりませんでしたわ」
「目的地は高原ですからね」
「もったいないですわ」
宿へ向かう途中、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。店先では、丸いパンの上に白いチーズを乗せ、熱した石窯で焼いている。
「ララノヴァ」
「はい」
「あれは――」
「昼食にいたしましょう」
「まだ何も言っておりませんわ」
「お顔に書いてございました」
マリアナは少しだけ笑った。
二人は小さな店へ入り、窓際の席へ座った。運ばれてきたのは、表面が香ばしく焼けたパンと、溶けた山羊のチーズ。上には蜂蜜が細く垂らされている。一口食べると、塩気のあるチーズのあとから蜂蜜の甘さが広がった。
「美味しい……」
マリアナは目を細める。
「お嬢様は旅に出られてから、そのお言葉を随分おっしゃるようになりましたね」
「だって美味しいものが多いのですもの」
「侯爵家のお料理も十分美味しかったかと思いますが」
「もちろんよ」
マリアナはもう一口食べる。
「でも、違いますの」
「違う?」
「ここで食べるから、美味しいのですわ」
朝から山道を揺られてきた。窓の外には知らない町がある。聞いたことのない鈴の音がして、暖炉から薪の匂いがする。その全部を含めて、この味なのだと思った。
「持って帰って屋敷で食べても、きっと同じではありませんわ」
ララノヴァは少し考えてから頷いた。
「それは、分かる気がいたします」
「でしょう?」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
翌日の午後。二人はアルシェラ高原へ向かうため、案内人とともに町を出た。高原まで馬車では行けないため、山の麓で馬車を降り、そこからは歩いて登ることになる。案内役として、この地方で生まれ育った若い女性を一人雇っていた。
「明日は晴れそうです」
山道へ入る前、彼女は空を見上げて言った。
「ただ、雲海が出るかどうかは運ですね」
「花は?」
「それなら大丈夫です。今がちょうど見頃ですから」
マリアナの顔が明るくなる。
「楽しみですわ」
「初めてですか?」
「ええ」
「でしたら、寒さ対策だけはしっかりしてくださいね。日の出前はかなり冷えます」
「分かりました」
それから数時間かけて山道を登り、夕方には標高の高い場所に建つ小さな山小屋へ辿り着いた。その日の夜、マリアナは山小屋の寝台に入りながら、枕元へ旅行記を置いた。明日の今頃にはもう見終わっているのだと思うと、眠るのが惜しいような、不思議な気持ちだった。
*
夜明け前。空にはまだ無数の星が残っている。吐く息は白く、足元の草には薄い霜が降りていた。
「寒いですわね」
「だから申し上げました」
ララノヴァは厚手の外套の襟を押さえる。
「でも、楽しいですわ」
「お嬢様は大抵のことを楽しんでしまわれますね」
三人は小さな灯りを頼りに山道を歩いていた。先頭を案内人、その後ろにマリアナ、最後にララノヴァ。山小屋を出てから一時間ほどして、ようやく視界が開ける。
「着きましたよ」
案内人が言った。マリアナは顔を上げた。
「……」
まだ花は咲いていなかった。広大な高原一面を、背の低い草と、固く閉じた無数の蕾が覆っている。そして、その向こう。
「まぁ……」
雲だった。高原の下を、白い雲が埋め尽くしている。遠くの山々は雲の中から島のように頭だけを出していた。月明かりを受けた雲海は淡い銀色で、ゆっくりと波打っている。
「これだけでも十分綺麗ですわ」
マリアナが呟く。
「まだですよ」
案内人が微笑んだ。
「もう少し待ってください」
三人は高原の端に腰を下ろした。東の空が、ほんの少しずつ明るくなっていく。黒、深い青、淡い桃色。空の色がゆっくり変わるたび、眼下の雲海も色を変えた。やがて、遠くの山の向こうから細い光が差した。
「……始まります」
案内人が小さく言った。マリアナは高原を見る。
一つ、蕾が開いた。白い花だった。花びらの先に溜まった朝露が、夜明けの光を受けて輝く。その隣も。さらにその隣も。
「あ……」
次々に蕾が開いていく。白、薄桃色、淡い青、黄色、紫。高原を覆っていた緑が、見る間に色へ変わっていった。まるで夜明けそのものが地面を走り、その後を追うように花が咲いていく。
「まぁ……」
それ以上の言葉が出なかった。
朝日が昇る。何万、何十万という花びらが一斉に光を受けた。朝露が輝く。無数の小さな光が、高原いっぱいに散らばった。その向こうには、果てのない白い雲海。花畑の端から先には地面がなく、そのまま雲へ続いているように見える。本当に、雲の上に花畑が浮かんでいた。
「……夢のようです」
隣でララノヴァが呟いた。その声も、どこか遠く感じた。マリアナはただ立ち尽くしていた。風が吹いた。一面の花が同じ方向へ揺れる。花びらの波。その先で、雲の海もゆっくりと動いている。空、雲、花。境目がなくなっていく。
「ララノヴァ」
「はい」
「私……」
声が少し震えた。
「本当に、ここへ来てよかったですわ」
「ええ」
ララノヴァも微笑んだ。
「私もそう思います」
マリアナは笑った。
胸の奥がいっぱいだった。こんな景色が、この世界にある。自分は十八年間、それを知らなかった。旅行記で見つけなければ、きっと一生知らないままだった。そして今、自分の足でここまで来た。そのことが、たまらなく嬉しい。しばらくして、マリアナは懐から小さな硝子の魚を取り出した。朝日に透かす。銀色の体と青い尾びれの向こうに、花畑と雲海が見えた。
「……ラドルフ様にも、見せたかったですわね」
言葉は自然に出た。
「そうですね」
ララノヴァはそれだけ答えた。
マリアナは硝子の魚を胸元へ戻す。
「でも」
もう一度、目の前の景色を見る。
「次にお会いしたら、いっぱいお話しいたしますわ」
どんな色だったか。どんな匂いがしたか。どれほど寒かったか。朝日が昇った瞬間、どんなふうに花が開いたか。全部。きっとラドルフは聞いてくれる。以前なら、そんなことを考えただろうか。マリアナ自身にも分からなかった。
やがて太陽が高くなる。花びらから朝露が消え始めた。一時間だけの花畑。開いていた花々が、少しずつ閉じていく。
「もう終わるのですね」
「はい」
案内人が答える。
「また次の季節まで」
マリアナは最後まで目を逸らさなかった。花が一つ、また一つと閉じていく。最後に残った白い花が閉じた頃には、雲海も朝日に照らされて薄くなり始めていた。
「行きましょうか、お嬢様」
「ええ」
マリアナは頷く。そして高原を離れる前に、もう一度だけ振り返った。今はもう、ただの緑の高原に戻っている。それでも、さっきまでそこにあった景色を、マリアナはきっと一生忘れないと思った。
「次はどこへ行きましょう」
山道を下りながら、マリアナが言う。
「もう次でございますか?」
「だって、まだたくさんございますもの」
ララノヴァは小さく笑った。
「では、麓へ戻ってからお決めくださいませ」
「ええ」
マリアナも笑う。けれど今度は、旅行記を開く前に一つだけ考えた。次は、ラドルフ様とも一緒に見られる場所だと嬉しいですわね、と。




