第七話「次の行き先は、雲の上」
スクアニ湖を発って六日。馬車は北西へ延びる街道を走っていた。窓の外には少しずつ山が増えている。平地では遠くに霞んでいた峰々が、一日ごとに大きくなり、今では空の半分近くを占めていた。
「本当に、あの向こうなのですね」
「ええ」
マリアナは膝の上に旅行記を広げた。開かれているのは、何度も読み返した頁だった。雲海の中から突き出した高原と、その上を埋め尽くす花々。頁の隅には、小さな文字で説明が添えられている。
『アルシェラ高原。標高二千八百メートル。年に二度、夜明けからおよそ一時間のみ、朝露花が一斉に開花する。眼下に雲海が生じた日は、まるで雲の上に花畑が浮かんでいるように見える』
「雲の上に、花畑……」
マリアナはまた呟いた。
「本日だけで四度目です」
「そんなに?」
「はい」
「でも、素敵でしょう?」
「素敵だとは思います」
ララノヴァは窓の外にそびえる山々を見る。
「辿り着くまでが大変そうだとも思います」
「それも旅ですわ」
マリアナは嬉しそうに頁へ視線を戻した。
スクアニ湖を出てから、景色は目まぐるしく変わっていた。湖沿いの道を離れると、しばらくは葡萄畑が続いた。丘の斜面いっぱいに並ぶ葡萄の木。小さな村では、搾りたてだという葡萄の果汁を飲んだ。翌日は針葉樹の森を抜けた。木々の間から差し込む光が地面に細長く伸び、馬車が進むたびに形を変えていく。知らない土地を通るたびに、マリアナの旅行記には載っていない景色が増えていった。
「ララノヴァ」
「はい」
「旅行記というのは、不思議ですわね」
「何がでございますか?」
「見たい場所を教えてくださいますけれど、そこへ行く途中のことはほとんど書いてありませんもの」
マリアナは窓の外を見る。川沿いに小さな水車が回っていた。そのそばで、子供が二人、裸足で水遊びをしている。
「こういう景色も、私は好きですわ」
「でしたら、お嬢様ご自身で旅行記を書かれてはいかがですか?」
「私が?」
「はい」
マリアナは少し考えた。
「それも楽しそうですわね」
「まずは今お持ちの旅行記を最後まで巡ってからになさってくださいませ」
「全部巡ってもよろしくて?」
「そういう意味ではございません」
マリアナは笑った。けれど、笑ったあとで、ふと窓の向こうへ目をやる。ラドルフがいなくなって六日。馬車の向かい側は、以前と同じようにララノヴァだけになった。旅に出た最初も、そうだったはずなのに。なぜか今は少しだけ広く感じる。
「お嬢様?」
「何でもありませんわ」
マリアナは旅行記を閉じると、鞄から小さな布袋を取り出した。中には、ラドルフからもらった銀色の魚の硝子細工が入っている。
「……そうですわ」
マリアナが顔を上げる。
「次の町で、手紙を出したいのですけれど」
「ラドルフ様へですか?」
「ええ」
ララノヴァは少しだけ笑った。
「承知いたしました」
*
その日の夕方。二人は街道沿いの小さな宿場町へ入った。石畳の中央を荷馬車が行き交い、通りの端には各地へ手紙を運ぶ飛脚馬の詰所がある。宿へ入る前にマリアナは便箋を買い、部屋へ入ると窓際の机に座った。ペンを取ったところで、手が止まった。
「……何を書けばいいのでしょう」
「お好きなことをお書きになればよろしいのでは?」
荷物をほどいていたララノヴァが答える。
「そうなのですけれど」
マリアナは便箋を見る。婚約者だった頃にも、ラドルフへ手紙を送ったことは何度もあった。けれど内容はいつも、茶会の日程、家同士の予定、誕生日や祝宴への礼と決まっていた。こうして何の用事もなく手紙を書くのは、初めてかもしれない。マリアナは少し考えてから、ペンを走らせた。
『ラドルフ様へ。無事にスクアニ湖を発ちました。次はアルシェラ高原へ向かいます。雲の上に花畑が現れるそうですの。もちろん、本当に雲の上に浮かんでいるわけではなく、高原の下に雲海が広がるという意味だそうです。それでも、とても楽しみです。今日は途中の村で、葡萄の果汁をいただきました。とても甘くて美味しかったです。旅行記には書かれていませんでした。旅というのは、知らなかったものを見つけることなのかもしれませんね』
そこで一度、ペンが止まる。まだ空白が残っている。何かを書きたい。けれど、それが何なのか少し迷った。やがて、もう一度ペンを動かす。
『ラドルフ様にも、雲の上の花畑をお見せしたかったですわ』
書いてから、マリアナはその一文を見つめた。
「……」
「どうかなさいましたか?」
「いいえ」
消そうかと思った。けれど結局、そのまま残した。
『お仕事がお忙しいと思いますので、どうか無理はなさらないでください。マリアナ』
手紙を折り畳む。
「できましたわ」
「では、明朝お出ししましょう」
「ええ」
窓の向こうには、遠い山々が黒い影となって連なっていた。あの山の向こうに、まだ見たことのない景色が待っている。それだけで胸が高鳴る。けれど同時に、その景色を見たとき、自分はまたラドルフのことを思い出すような気がした。




