第六話「空を渡る銀の川」
翌々日の朝。まだ空が薄暗いうちから、スクアニ湖のほとりには大勢の人が集まっていた。湖岸の桟橋、家々の屋根、少し高くなった丘。誰もが東の空と湖面を見つめている。町中に飾られた青い布が、朝の風を受けて揺れていた。
「風がありますわ」
マリアナは嬉しそうに言った。
「ええ。これなら見られるかもしれませんね」
ララノヴァも湖を眺める。
三人は湖岸から少し離れた丘にいた。宿の主人が教えてくれた場所だ。湖全体と、その向こうに連なる山々まで見渡せる。地元の人が売っていた温かい果実茶を手に、日の出を待つ。まだ冷たい朝の空気。湖面を渡ってくる湿った風。少し離れたところでは子供たちが笑っている。旅人たちも、誰もが声を潜めて湖を見ていた。やがて、東の山の向こうが明るくなり始めた。
「……来ますよ」
近くにいた老人が呟いた。風が強くなる。青い布が大きくはためいた。湖面に細かな波が走る。そして突然、水面の一角が銀色に輝いた。
「まぁ……!」
一匹、十匹、百匹。無数の魚が、一斉に水面から飛び出した。銀色の鱗が朝日を反射する。魚たちは大きく広げた半透明のひれで風を受け、そのまま湖の上を滑るように舞い上がった。一度も水へ戻らない。次から次へと飛び出した魚が群れとなり、高く、高く昇っていく。やがて空に、一本の流れが生まれた。銀色の魚たちが連なり、山へ向かって進んでいく。まるで湖の一部が空へ持ち上げられ、そのまま流れ始めたようだった。
「すごい……」
ララノヴァが息を呑む。マリアナは言葉すら出なかった。
何万もの銀色が、朝焼けの空を横切っていく。その下には青い湖。上には淡い橙色に染まる空。魚の群れが太陽の前を通るたび、一瞬だけ空全体が黄金色に輝いた。旅行記には「銀色の川」と書かれていたけれど違う。そんな言葉だけでは足りなかった。
「……来てよかった」
マリアナは小さく呟いた。婚約を解消したこと、家を出たこと、父を怒らせたこと、母を泣かせたこと。後悔していないつもりだった。それでも、ときどき胸の奥に小さな迷いが生まれる。本当にこれでよかったのか。自分はあまりにも勝手なことをしたのではないか。けれど今、目の前を流れていく銀色の川を見ていると、そんな迷いまで風にさらわれていくようだった。
「マリアナ」
隣から名前を呼ばれる。
「はい?」
振り向くと、ラドルフがこちらを見ていた。
「魚を見なくてよろしいの?」
「見ているよ」
「でも、私の方を見ていらっしゃいましたわ」
「少しくらいいいだろう?」
「せっかく空を飛んでおりますのに」
「魚はまた見るよ」
ラドルフは笑った。
「君がこんな顔をするところは、今まで見たことがなかったからね」
「どんな顔ですの?」
「とても幸せそうな顔」
マリアナは少しだけ黙った。自分がどんな顔をしているのかは分からない。けれど、幸せだった。
「ラドルフ様」
「うん?」
「私、今、とても楽しいですわ」
「ああ」
「こんなに楽しいとは思っておりませんでした」
「そうだろうね」
ラドルフはもう一度、空を見上げる。
「私も、来る前よりは君の気持ちが分かるよ」
「本当?」
「まだ婚約を解消するほどかは分からないけれど」
マリアナは少しだけ頬を膨らませた。ラドルフが笑う。
「でも、君が見たいと言ったものを、私も見てみたいと思うようにはなった」
それなら十分だった。マリアナは再び空を見る。銀色の川は、まだ続いている。三人はそれから長い間、言葉を交わさずに魚たちを見送った。
*
昼前。宿の前には、ラドルフの馬が用意されていた。領都セレナディアまで同行する護衛も、町で二人雇っている。ララノヴァはそれを確認して、少し安心したようだった。
「では、私はここで戻るよ」
「はい」
マリアナは頷いた。
分かっていたはずなのに、もうすぐ一緒にいられなくなるのだと思うと、胸の奥に小さな寂しさが残った。
「マリアナ」
「はい?」
「次の行き先が決まったら、手紙を」
「分かっておりますわ」
「無理をしないこと」
「はい」
「危険な場所へ一人で入らないこと」
「ララノヴァがおります」
「ララノヴァ」
ラドルフが彼女を見る。
「頼んだよ」
「できる限りは」
「ララノヴァ?」
「お嬢様を完全に止められるとは申し上げられませんので」
ラドルフは困ったように笑った。
「それもそうだね」
そして改めてマリアナを見る。
「では、行ってくる」
「お気をつけて」
「ああ」
ラドルフが馬へ手をかける。その背中を見ていると、マリアナの口から自然と言葉が出た。
「ラドルフ様」
彼が振り返る。
「何だい?」
「また……」
一瞬だけ迷う。
「また、どこかで一緒に見られたら嬉しいですわ」
ラドルフは驚かなかった。ただ、とても優しく笑った。
「私もだよ」
それだけ言って、馬へ乗る。やがてラドルフの姿は、街道の向こうへ小さくなっていった。マリアナはしばらくその背中を見送った。
「お嬢様」
「なぁに?」
「少しお寂しいですか?」
マリアナは考えた。否定しようと思えばできた。けれど。
「……少しだけ」
「そうですか」
ララノヴァはそれ以上何も言わなかった。
マリアナは胸元へ手を伸ばす。そこにはラドルフから贈られた、小さな硝子の魚があった。朝日を受けて、銀色の体と青い尾びれがきらりと輝く。
「さて」
マリアナは旅行記を開いた。
「次はどこへ参りましょう?」
「もうお決めになるのですか?」
「ええ」
ページをめくる。まだ見たことのない景色が、いくつも並んでいる。その一つで、マリアナの指が止まった。
「まぁ」
「今度は何でございますか?」
マリアナは旅行記の一頁を食い入るように見つめていた。
「時期が、ちょうどよさそうですわ」
「時期、でございますか?」
ララノヴァが旅行記を覗き込む。
そこに描かれているのは、雲海の上に広がる花畑だった。年に二度、朝露花が見頃を迎え、夜明けからおよそ一時間だけ一斉に花を開く。
「今から向かえば、ちょうど花の時期に着けそうですの」
「ここからですと、山をいくつも越えることになりますが」
「素敵ですわね」
「距離のお話をしております」
マリアナは頁に描かれた花畑へ視線を戻した。
「雲海まで見られるかは運ですけれど。それも楽しみですわ」
そして、ふと思う。
これを見たら、ラドルフ様はどんな顔をなさるのかしら、と。




