第五話「空飛ぶ魚を待つ町」
七色の洞窟から次の目的地までは、馬車で五日ほどだった。そこはスクアニ湖。南北に長く伸びる巨大な湖で、一年のうち限られた時期だけ、そこに棲む魚たちが空を渡るという。旅行記にはこう書かれていた。
『風の強い朝、数万の銀鱗魚が一斉に湖を飛び出し、山を越えて南の水域へと移動する。その群れは、空を流れる銀色の川のように見える』
「銀色の川……」
馬車の中で、マリアナは何度目か分からないその一文を読み返していた。ラドルフは向かいで書類を読んでいる。
「ラドルフ様」
「うん?」
「空を川が流れるそうですわ」
「魚だろう?」
「空にいるのですから、もう川でもよろしいのではなくて?」
「よくはないと思うよ」
ラドルフはそう答えながらも、口元には薄く笑みを浮かべていた。五日間の道中で、マリアナは何度も馬車を止めた。丘の上から湖が初めて見えたとき。道端に見たことのない白い花が咲いていたとき。小さな村で、旅人にだけ振る舞われるという焼き菓子を見つけたとき。最初の頃なら、ラドルフはそのたびに予定を気にしたかもしれないが、今は違った。
「寄っていくかい?」
マリアナが口にするより先に、そう尋ねることさえあった。
「よろしいの?」
「魚が飛ぶのは明後日だろう?」
「ええ」
「なら、一時間くらい問題ない」
「まぁ」
マリアナは嬉しそうに馬車を降りる。ララノヴァはその後ろ姿を見送り、それからラドルフへ視線を向けた。
「随分お慣れになりましたね」
「何に?」
「お嬢様との旅に」
ラドルフは答えず、先を歩くマリアナを見た。
「そうかもしれないね」
*
スクアニ湖のほとりにある町へ着いたのは、夕暮れ前だった。街へ入った瞬間、マリアナは窓へ顔を近づける。
「まぁ……」
町中が青かった。家々の窓には淡い青色の布が吊るされ、軒先では透明な硝子飾りが風に揺れている。魚を模したもの、水滴の形をしたもの、翼のような薄い硝子片。夕日を受けるたび、町のあちこちで小さな光が輝いた。
「綺麗ですわね」
「銀鱗魚の旅立ちを祝うための飾りだそうです」
ララノヴァが街の入口で受け取った案内紙を読む。
「昔、この地方では空を渡る魚は豊穣を運ぶ使いだと考えられていて、旅立ちの日には青い布を飾って、その道行きの無事を願ったそうです」
「ですから町中で送り出すのね」
マリアナは馬車を降りると、すぐに通りを歩き始めた。旅人も多く、露店では魚の形をした焼き菓子が並び、子供たちは青い布を腕に結んで走り回っている。湖から吹く風には、水の匂いが混じっていた。
「ララノヴァ、あれは何でしょう?」
「お菓子かと思います」
「いただいてみましょう」
三人で買った焼き菓子は、中に甘く煮た木の実が入っており、表面には細かな砂糖がまぶされていた。
「美味しいですわ」
マリアナは次の露店へ目を向ける。今度は硝子細工だった。銀色の小さな魚は、光を受けるたびにきらきらと輝き、まるで水の中を泳いでいるように見える。
「まぁ……」
マリアナが手に取った。
「素敵ですわね」
「気に入った?」
「ええ。でも旅は始まったばかりですもの。荷物を増やしすぎないようにしなくては」
名残惜しそうに戻そうとしたとき、ラドルフが店主へ代金を渡した。
「ラドルフ様?」
「旅の記念だよ」
「でも」
「この程度のものまで遠慮されると、少し寂しいな」
そう言われてしまうと断りづらい。マリアナは小さな魚を掌に載せた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
銀色の魚が、夕日にきらりと光った。婚約者だった頃、ラドルフから高価な宝石を贈られたことなら何度もある。誕生日、祝宴、婚約記念日。どれも立派なものだった。けれど、旅先の露店で買ってもらった小さな硝子細工が、それらとはまったく違う嬉しさを持っていることが、マリアナには少し不思議だった。
*
その日の夜。三人は湖の見える宿の食堂で夕食を取った。名物だという湖魚の香草焼き、薄く切った芋を重ねて焼いた料理、柑橘を浮かべた冷たい水。窓の向こうには、暗い湖が広がっている。
「明後日の朝だそうですわ」
マリアナは嬉しそうに言った。
「風さえ吹けば、日の出とともに始まるそうですの」
「風がなかったら?」
「翌朝まで待ちますわ」
「その翌朝もなかったら?」
「さらに待ちます」
迷いがない。ラドルフは笑った。
「マリアナらしいね」
「せっかくここまで来たのですもの」
「そうだね」
しばらくして、ラドルフが静かに食器を置いた。
「マリアナ」
「はい?」
「魚を見たら、私は領都へ戻るよ」
マリアナの手が止まった。
「……そうですのね」
「ああ」
分かっていたことだった。ラドルフには仕事がある。公爵家の嫡子として、いつまでも旅を続けていられるはずがない。
「十分付き合っていただきましたもの」
「そう言ってもらえると助かるよ」
マリアナは微笑んだ。けれど、思っていたほど上手には笑えなかったらしい。ラドルフが少し困ったように彼女を見る。
「そんな顔をされると、帰りづらくなるな」
「そんな顔?」
「残念そうな顔」
マリアナは自分の頬へ触れた。
「出ておりました?」
「十一年も見てきたからね」
「……そうでしたわね」
少しだけ恥ずかしくなった。
「でも、戻られて当然ですわ」
「ああ。戻る」
ラドルフはそこで言葉を切った。
「だから、次にどこへ行くのか教えてほしい」
「次?」
「手紙を送ってくれないか」
マリアナが目を丸くする。
「どうして?」
「君がどこにいるのかくらい知っておきたい」
「心配ですの?」
「それもある」
「それも?」
ラドルフは穏やかに笑った。
「また会いに行けるかもしれないだろう?」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「また来てくださるの?」
「行けるならね」
「ですが、私たちはもう婚約者ではございませんわ」
「知っているよ」
「でしたら――」
「婚約を解消したからといって、私が君を好きではなくなったわけではない」
あまりにも静かに言うものだから、マリアナはすぐには返事ができなかった。ラドルフは昔からそうだった。大きな声で何かを主張する人ではない。感情をぶつけることもない。ただ、当たり前のことのように言う。
「君が旅をしたいなら、すればいい」
ラドルフは続けた。
「私は君に帰ってこいとは言わないよ」
「……」
「その代わり、たまに私が会いに行くくらいは許してほしい」
マリアナはしばらく彼を見つめた。
「それは……」
「嫌かい?」
「いいえ」
答えはすぐに出た。
「むしろ、嬉しいですわ」
「なら決まりだ」
ラドルフが笑う。窓の外で、青い硝子飾りが夜風に揺れていた。




