↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『滝が逆に流れるそうなので、婚約を解消します』  作者: NEA_


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/21

第五話「空飛ぶ魚を待つ町」



 七色の洞窟から次の目的地までは、馬車で五日ほどだった。そこはスクアニ湖。南北に長く伸びる巨大な湖で、一年のうち限られた時期だけ、そこに棲む魚たちが空を渡るという。旅行記にはこう書かれていた。


 『風の強い朝、数万の銀鱗魚が一斉に湖を飛び出し、山を越えて南の水域へと移動する。その群れは、空を流れる銀色の川のように見える』


「銀色の川……」


 馬車の中で、マリアナは何度目か分からないその一文を読み返していた。ラドルフは向かいで書類を読んでいる。


「ラドルフ様」


「うん?」


「空を川が流れるそうですわ」


「魚だろう?」


「空にいるのですから、もう川でもよろしいのではなくて?」


「よくはないと思うよ」


 ラドルフはそう答えながらも、口元には薄く笑みを浮かべていた。五日間の道中で、マリアナは何度も馬車を止めた。丘の上から湖が初めて見えたとき。道端に見たことのない白い花が咲いていたとき。小さな村で、旅人にだけ振る舞われるという焼き菓子を見つけたとき。最初の頃なら、ラドルフはそのたびに予定を気にしたかもしれないが、今は違った。


「寄っていくかい?」


 マリアナが口にするより先に、そう尋ねることさえあった。


「よろしいの?」


「魚が飛ぶのは明後日だろう?」


「ええ」


「なら、一時間くらい問題ない」


「まぁ」


 マリアナは嬉しそうに馬車を降りる。ララノヴァはその後ろ姿を見送り、それからラドルフへ視線を向けた。


「随分お慣れになりましたね」


「何に?」


「お嬢様との旅に」


 ラドルフは答えず、先を歩くマリアナを見た。


「そうかもしれないね」



 スクアニ湖のほとりにある町へ着いたのは、夕暮れ前だった。街へ入った瞬間、マリアナは窓へ顔を近づける。


「まぁ……」


 町中が青かった。家々の窓には淡い青色の布が吊るされ、軒先では透明な硝子飾りが風に揺れている。魚を模したもの、水滴の形をしたもの、翼のような薄い硝子片。夕日を受けるたび、町のあちこちで小さな光が輝いた。


「綺麗ですわね」


「銀鱗魚の旅立ちを祝うための飾りだそうです」


 ララノヴァが街の入口で受け取った案内紙を読む。


「昔、この地方では空を渡る魚は豊穣を運ぶ使いだと考えられていて、旅立ちの日には青い布を飾って、その道行きの無事を願ったそうです」


「ですから町中で送り出すのね」


 マリアナは馬車を降りると、すぐに通りを歩き始めた。旅人も多く、露店では魚の形をした焼き菓子が並び、子供たちは青い布を腕に結んで走り回っている。湖から吹く風には、水の匂いが混じっていた。


「ララノヴァ、あれは何でしょう?」


「お菓子かと思います」


「いただいてみましょう」


 三人で買った焼き菓子は、中に甘く煮た木の実が入っており、表面には細かな砂糖がまぶされていた。


「美味しいですわ」


 マリアナは次の露店へ目を向ける。今度は硝子細工だった。銀色の小さな魚は、光を受けるたびにきらきらと輝き、まるで水の中を泳いでいるように見える。


「まぁ……」


 マリアナが手に取った。


「素敵ですわね」


「気に入った?」


「ええ。でも旅は始まったばかりですもの。荷物を増やしすぎないようにしなくては」


 名残惜しそうに戻そうとしたとき、ラドルフが店主へ代金を渡した。


「ラドルフ様?」


「旅の記念だよ」


「でも」


「この程度のものまで遠慮されると、少し寂しいな」


 そう言われてしまうと断りづらい。マリアナは小さな魚を掌に載せた。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 銀色の魚が、夕日にきらりと光った。婚約者だった頃、ラドルフから高価な宝石を贈られたことなら何度もある。誕生日、祝宴、婚約記念日。どれも立派なものだった。けれど、旅先の露店で買ってもらった小さな硝子細工が、それらとはまったく違う嬉しさを持っていることが、マリアナには少し不思議だった。



 その日の夜。三人は湖の見える宿の食堂で夕食を取った。名物だという湖魚の香草焼き、薄く切った芋を重ねて焼いた料理、柑橘を浮かべた冷たい水。窓の向こうには、暗い湖が広がっている。


「明後日の朝だそうですわ」


 マリアナは嬉しそうに言った。


「風さえ吹けば、日の出とともに始まるそうですの」


「風がなかったら?」


「翌朝まで待ちますわ」


「その翌朝もなかったら?」


「さらに待ちます」


 迷いがない。ラドルフは笑った。


「マリアナらしいね」


「せっかくここまで来たのですもの」


「そうだね」


 しばらくして、ラドルフが静かに食器を置いた。


「マリアナ」


「はい?」


「魚を見たら、私は領都へ戻るよ」


 マリアナの手が止まった。


「……そうですのね」


「ああ」


 分かっていたことだった。ラドルフには仕事がある。公爵家の嫡子として、いつまでも旅を続けていられるはずがない。


「十分付き合っていただきましたもの」


「そう言ってもらえると助かるよ」


 マリアナは微笑んだ。けれど、思っていたほど上手には笑えなかったらしい。ラドルフが少し困ったように彼女を見る。


「そんな顔をされると、帰りづらくなるな」


「そんな顔?」


「残念そうな顔」


 マリアナは自分の頬へ触れた。


「出ておりました?」


「十一年も見てきたからね」


「……そうでしたわね」


 少しだけ恥ずかしくなった。


「でも、戻られて当然ですわ」


「ああ。戻る」


 ラドルフはそこで言葉を切った。


「だから、次にどこへ行くのか教えてほしい」


「次?」


「手紙を送ってくれないか」


 マリアナが目を丸くする。


「どうして?」


「君がどこにいるのかくらい知っておきたい」


「心配ですの?」


「それもある」


「それも?」


 ラドルフは穏やかに笑った。


「また会いに行けるかもしれないだろう?」


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


「また来てくださるの?」


「行けるならね」


「ですが、私たちはもう婚約者ではございませんわ」


「知っているよ」


「でしたら――」


「婚約を解消したからといって、私が君を好きではなくなったわけではない」


 あまりにも静かに言うものだから、マリアナはすぐには返事ができなかった。ラドルフは昔からそうだった。大きな声で何かを主張する人ではない。感情をぶつけることもない。ただ、当たり前のことのように言う。


「君が旅をしたいなら、すればいい」


 ラドルフは続けた。


「私は君に帰ってこいとは言わないよ」


「……」


「その代わり、たまに私が会いに行くくらいは許してほしい」


 マリアナはしばらく彼を見つめた。


「それは……」


「嫌かい?」


「いいえ」


 答えはすぐに出た。


「むしろ、嬉しいですわ」


「なら決まりだ」


 ラドルフが笑う。窓の外で、青い硝子飾りが夜風に揺れていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。