第四話「七色の洞窟へ」
リュシエイル大瀑布を後にした一行が街へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。夕暮れの名残が西の空にわずかに残り、通りには宿や食堂の明かりが一つ、また一つと灯り始めている。ラドルフとともにやって来た護衛たちは、宿の前で馬を休ませていた。
「ラドルフ様。本当に我々は戻ってよろしいのでしょうか」
「ああ」
ラドルフは頷いた。
「父上には、私から事情を説明すると伝えてくれ」
「ですが、この先も旅を続けられるのでしたら、我々も――」
「そこまで長く付き合うつもりはないよ」
穏やかにそう答えたラドルフへ、マリアナが振り返る。
「そうなのですか?」
「残念そうだな」
「……少しだけ」
マリアナは素直に答えた。ラドルフが僅かに目を細める。
「仕事をすべて放り出してきたわけではないからね。いつまでも君を追いかけているわけにはいかない」
「それはそうですわね」
「ただ、もう少しくらいなら付き合える」
「まぁ」
「七色に光る洞窟だったか?」
「覚えていてくださったの?」
「滝の前であれだけ楽しそうに話されればね」
マリアナの顔が明るくなる。
「では、一緒に見られますのね」
「ああ」
それだけで、妙に嬉しかった。婚約者だった頃なら、当然のように隣にいた人だ。けれど今は違う。ラドルフは自分の意思で、マリアナの旅についてきている。
「ラドルフ様」
「なんだい?」
「ありがとうございます」
ラドルフは一瞬だけ意外そうな顔をした。
「まだ何もしていないよ」
「それでもですわ」
護衛たちは二人の会話を邪魔しないよう、一礼して馬へ戻った。護衛たちは明朝、ディフォン公爵領の領都セレナディアへ向けて出発するという。
三人はそのまま、街の中心にある宿へ入った。大瀑布の逆流を目当てに訪れた旅人で、一階の食堂は賑わっている。焼いた肉の香りに、香草と葡萄酒の甘い匂い。見たことのない形のパンが籠に積まれ、給仕たちが忙しそうにテーブルの間を行き交っていた。マリアナは受付へ向かう途中で、何度も食堂へ視線を向ける。
「お嬢様」
「見ていただけですわ」
「まだ何も申し上げておりません」
「そうでしたわね」
受付にいた女将が三人を見る。
「三名様かい?」
「ええ。三部屋お願いいたします」
「三部屋?」
女将がマリアナとラドルフを見比べた。
「ご夫婦じゃないのかい?」
「違いますわ」
「今はね」
マリアナが振り返った。
「ラドルフ様?」
「何も間違ったことは言っていないだろう?」
ララノヴァは何も言わず、受付台の上へ視線を落とした。女将も何かを察したらしい。
「……三部屋ね」
「お願いいたしますわ」
鍵を受け取ったあと、マリアナはとうとう我慢できずに食堂を見る。
「ララノヴァ」
「はい」
「あちらのお料理は何でしょう?」
「私に聞かれましても」
大きな陶器の皿に、白い豆と肉を煮込んだ料理が盛られている。その横には、表面を香ばしく焼いた三角のパン。マリアナの知らない料理だった。
「食べてみたいですわ」
「なら食べようか」
ラドルフが何でもないことのように言った。マリアナは彼を見る。
「よろしいの?」
「どうして私に聞くんだい?」
「以前なら、旅先の食堂で知らない料理をいただくなんて、少し考えてしまいましたから」
公爵家へ嫁ぐ予定だった。食事一つを取っても、どこで誰と何を口にするかを意識するよう教えられてきた。別邸へ出かけたことも、避暑地で過ごしたこともある。けれど、そこにはいつも使用人がいて、食卓にはあらかじめ整えられた料理が並んでいた。こうして知らない土地の食堂に入り、隣の卓を見て「同じものを食べてみたい」と思ったことなど、一度もなかった。
「今は、どうしたい?」
ラドルフが尋ねる。マリアナはもう一度、料理を見る。
「食べたいですわ」
「なら、そうしよう」
その言葉が、思っていた以上に嬉しかった。
「では、あれをお願いいたしましょう」
料理は、豆と塩漬け肉を香草と一緒に長時間煮込んだものだった。一口食べると、柔らかな豆の甘みのあとから、肉の旨味と香草の香りが広がる。
「まぁ……」
マリアナはゆっくりと味わった。
「美味しいですわ」
「お気に召したようで何よりです」
ララノヴァも口元を緩める。ラドルフは向かいから、そんなマリアナを眺めていた。
「何ですの?」
「いや」
「また何か変なことをしておりました?」
「何もしていないよ」
ラドルフは微笑んだ。
「ずいぶん楽しそうに食べるんだなと思っただけだ」
「だって、初めていただく味ですもの」
「そうだね」
十一年。それだけ長く彼女を知っていた。数え切れないほど食事もともにしてきた。けれど、こんなふうに一皿の料理を前に目を輝かせるマリアナを、ラドルフは知らなかった。
*
翌朝。ラドルフの馬も連れて街を出ると、昨日まで見ていた谷あいの景色が少しずつ変わっていった。大瀑布から離れるにつれて岩山は低くなり、代わりに緩やかな丘が続く。道の両側には淡い紫色の小さな花が一面に咲き、風が吹くたびに波のように揺れていた。
「まぁ……」
馬車の窓から身を乗り出しかけたマリアナを、ララノヴァがそっと袖を引く。
「お嬢様」
「分かっていますわ」
そう言いながらも、目は外へ向いたままだ。
「旅行記には載っておりませんでした」
「ただの野原だからではないか?」
向かいに座っていたラドルフが言う。
「でも、とても綺麗ですわ」
「そうだな」
あっさり同意され、マリアナが彼を見る。
「何ですの?」
「今度は何も言っていないよ」
「そうでしたわね」
マリアナは再び窓の外を見る。目的地だけではない。そこへ向かう途中にも、知らない景色はいくらでもあった。
昼には小さな村で馬を休ませた。石造りの家々の間を細い水路が流れ、村人たちは冷たい湧き水で果物を冷やして売っていた。マリアナは赤い果実を一つ買った。齧ると、強い酸味のあとから爽やかな甘みが広がる。
「ララノヴァもどう?」
「いただきます」
「ラドルフ様も」
差し出された果実を、ラドルフはそのまま一口齧った。
「酸っぱいな」
「でも美味しいでしょう?」
「ああ」
マリアナは満足そうに笑った。ラドルフは、いつの間にか自分まで道中の景色を探すようになっていることには、まだ気づいていなかった。
*
二日後の夕方。三人は七色の洞窟がある山の麓へ到着した。洞窟の入口には小さな管理小屋があり、年老いた案内人が待っている。
「中は滑りやすい。足元には十分気をつけなされ」
「はい」
「奥へ行くほど暗くなる。上ばかり見て歩かんことじゃ」
「分かりましたわ」
マリアナはしっかりと頷いた。
洞窟へ入って十分ほど経った頃には、外もすっかり夜になったのだろう。
「まぁ……」
マリアナは天井を見上げていた。岩肌のところどころが、淡い青色に光り始めている。夜になると七色に光る――旅行記に書かれていた通りだった。
「見てください、ラドルフ様。もう光っていますわ」
「ああ。見えているよ」
「奥はもっと綺麗なのでしょうね」
もう一歩。足元の濡れた岩に靴が滑った。
「きゃっ」
身体が傾く。その腰を、ラドルフの腕が支えた。マリアナの背中が彼の胸元へ触れる。
「……」
「危なかったね」
いつもの穏やかな声だった。
「申し訳ございません」
「謝らなくていい」
ラドルフはマリアナがしっかり立ったことを確認してから、ゆっくりと手を離した。
「ただ、君が見たいものを見に来たんだろう?」
「ええ」
「途中で怪我をして見られなくなったら、もったいない」
怒られると思っていたマリアナは、少しだけ驚いた。
「……気をつけますわ」
「あぁ」
その後は、少しだけ足元を見る時間が増えた。やがて案内人が立ち止まる。
「ここじゃ」
案内人は洞窟の奥に置かれた灯りを、一つずつ消していく。最後の炎が消えた。一瞬、完全な闇が訪れる。そして。
「……まぁ」
声が漏れた。
青、緑、紫、赤、黄、橙、柔らかな白。
洞窟の壁一面に、無数の光が浮かんでいた。小さな光が寄り集まり、ところどころで色を変えながら岩肌を覆っている。天井まで続く七色の光。足元を流れる地下水にもそれが映り込み、まるで上下に二つの星空があるようだった。水がわずかに揺れるたび、七色の光も静かに揺らめく。
「綺麗……」
ララノヴァが小さく呟いた。マリアナは答えず、ただ目の前の景色を見つめていた。少しでも多く覚えておきたい。この色も、水面に映る光も、洞窟を流れる冷たい空気も。本で見た挿絵より、ずっと美しかった。
「ラドルフ様」
マリアナがようやく振り返る。
「いかがです?」
ラドルフはしばらく七色の洞窟を見上げていた。
「ああ」
そして静かに笑う。
「とても綺麗だ」
マリアナの頬が緩んだ。
「でしょう?」
「それに」
「はい?」
「君が見たかった理由も、少し分かった気がする」
マリアナは何も言わなかった。ただ、嬉しかった。滝を見たとき、ラドルフは理解できないと言った。それでも彼はここまで来た。自分には分からないからと否定せず、同じ景色を見ようとしてくれている。
「来てくださってよかったですわ」
「私も、そう思い始めているよ」
三人はしばらく何も話さず、七色の光を眺めた。やがてラドルフが口を開く。
「次は何を見るんだった?」
マリアナが振り返った。
「空飛ぶ魚の大移動ですわ」
「いつ見られる?」
一瞬、返事ができなかった。
「……気になりますの?」
「少しだけね」
マリアナは嬉しそうに旅行記を開いた。




