第三話「初めての旅」
もっとも、婚約解消に至るまでの三日間が、穏やかだったはずもない。
当然、大騒ぎだった。ガーダリン侯爵は椅子から立ち上がり、母は扇子を落とした。ラドルフの父であるディフォン公爵は三度理由を聞き直し、四度目には『滝か』とだけ言った。五度目はなかった。
そして婚約解消から二日後。侯爵家の正門前に、一台の馬車が停まっていた。荷物は二人分。マリアナとララノヴァである。
父は最後まで護衛をつけると言い張ったが、マリアナが「私より強い方なら歓迎いたしますわ」と返したところで話は終わった。
「まぁ!」
マリアナは旅装姿で両手を広げた。
「なんて素敵なんでしょう!」
「まだ侯爵家の門前でございます」
「旅の始まりよ」
「屋敷が見えております」
「一歩でも出れば旅ですわ」
「まだ出ておりません」
「では出ましょう」
「そういう意味ではございません」
マリアナは上機嫌で馬車へ乗り込み、ララノヴァも深いため息をついて続く。
馬車が動き始めた。生まれてからずっと暮らした屋敷が遠ざかっていくが、不思議と寂しくはなく、むしろ胸が高鳴っていた。
「ララノヴァ」
「はい」
「私、今、旅をしておりますわ」
「まだ三百メートルほどですが」
「三百メートルも!」
「お嬢様」
もちろん、遠出をしたことがないわけではない。家族と避暑地へ向かったことも、公爵家や侯爵家の別邸を訪れたことも何度もある。
けれど、それはいつも誰かが決めた行き先だった。
どこへ行くのかも、何を見るのかも、いつ帰るのかも決まっている。
自分が見たいものを見に行くためだけに馬車へ乗ったのは、これが初めてだった。
マリアナは窓の外へ顔を向けた。まだ知っている道だったが、今までとはまるで違って見えた。
*
三日目。馬車が森へ差しかかったところで、盗賊が出た。
「止まれ!」
五人。前方を塞ぐように男たちが立っている。御者が青ざめ、ララノヴァが窓から外を見る。
「お嬢様」
「はい」
「盗賊です」
「そのようですわね」
「五人おります」
「ええ」
「お気をつけて」
「ありがとう」
ララノヴァは、それ以上は言わなかった。助けを呼びましょうとも、逃げましょうとも言わない。マリアナは旅用の剣を腰に差し、馬車を降りた。
盗賊の一人が目を丸くする。
「なんだ、嬢ちゃん」
「道を空けていただけます?」
「は?」
「少し急いでおりますの」
マリアナは申し訳なさそうに微笑んだ。
「滝が逆に流れ始めるまで、あと四日ですので」
「何言ってやがる」
盗賊の一人が下卑た笑みを浮かべ、マリアナを頭の先から足元まで眺めた。
「こいつはついてるな。馬車だけじゃねえ。随分と金になりそうな女まで乗ってやがる」
男がマリアナの腕を掴もうと手を伸ばした。
その手が届くより早く、マリアナは男の手首を取って引き寄せ、もう片方の手で剣の柄頭を顎へ叩き込んだ。
「ぐっ――」
男は白目を剥き、力の抜けた身体がそのまま地面へ崩れ落ちる。
「てめえ!」
「殺すな! 顔にも傷をつけるんじゃねえぞ!」
残った四人が左右と背後から一斉にマリアナへ迫った。マリアナは静かに剣を抜く。左から伸びてきた腕を払い、返す剣の柄を男のこめかみに叩き込む。そのまま身体を返して二人目の顎を柄頭で打ち上げ、背後から飛びかかってきた三人目には振り向きざまに剣の腹を側頭部へ叩きつけた。鈍い音が立て続けに響き、三人の盗賊が次々とその場に崩れ落ちる。
「……は?」
たった一人残された盗賊が、地面に倒れた四人を見回した。男の顔から血の気が引く。
「な、なんだこの女……」
じりじりと後ずさる。次の瞬間、男は背を向けて走り出した。
「お待ちくださいな」
「ひぃっ!」
マリアナは一気に距離を詰める。振り返った男が咄嗟に腕を振り回したが、その脇をすり抜け、剣の柄をこめかみへ叩き込んだ。
「がっ――」
男の身体から力が抜ける。そのまま前のめりに倒れ、動かなくなった。マリアナは何事もなかったように剣を鞘へ戻す。ララノヴァが馬車から降りてくる。
「怪我はございませんか?」
「大丈夫よ」
「それは何よりです」
倒れている五人の盗賊を見ても、ララノヴァは特に驚かなかった。マリアナの強さは幼い頃から何度も見ているからだ。
「この方たちは?」
「縛っておきましょう。次の町で衛兵にお知らせしますわ」
「承知いたしました」
マリアナは空を見上げる。
「急ぎましょう、ララノヴァ」
「はい」
「滝が待っていますわ」
*
それから二日後。
マリアナたちは、リュシエイル大瀑布にほど近い街へ到着した。
逆流が始まるまでには、まだ二日ほどある。
「滝まであと二日ありますわね」
「はい」
「では、この街も見て回れますわ!」
「そうなると思っておりました」
せっかく遠くまで来たのだからと、マリアナは街の市場を歩き、土地の料理を味わい、古い鐘楼から見える景色まで存分に楽しんだ。
「まぁ、ララノヴァ。旅というのは、目的地に着くまでも楽しいですわね」
「はい。まさか市場だけで半日お過ごしになるとは思いませんでしたが」
「だって、見たことのないものばかりでしたもの」
そして二日後。二人はついに、リュシエイル大瀑布へと向かった。
「……まぁ」
マリアナは、それしか言えなかった。巨大な断崖を埋め尽くすほどの水が、空へ向かって流れていた。
本来なら遥か上から落ちてくるはずの水が、谷底から断崖を駆け上がり、轟音とともに天へ昇っていく。白い濁流は何百メートルもの壁を逆さに流れ、崖の頂を越えて、さらに空へと吹き上がっていた。
音だけで身体の芯が震える。
巻き上げられた水飛沫が陽の光を受けてきらめき、その中に一本の虹が浮かんでいる。下から上へ。まるで空へ続く道のように、虹まで天へ伸びていた。
旅行記の挿絵で何度も見た。文章も、ほとんど覚えている。けれど、こんなものだとは思わなかった。音も、水飛沫も、目の前を覆い尽くす水の量も、本の頁には収まらない。
「……」
隣に立つララノヴァも、しばらく何も言わなかった。
「ねぇ、ララノヴァ」
「はい」
「どう?」
ララノヴァは滝を見上げたまま答えた。
「とても美しい光景かと思います」
「でしょう?」
「ですが」
やはり来た。
「こんなことをしていて、本当によろしいのでしょうか」
マリアナは少し考えた。婚約を解消し、父を怒らせ、母を泣かせた。社交界では今頃、好き放題に噂されているだろう。二週間後には公爵家へ嫁いでいるはずだった。それを全部捨てて、ここにいる。
マリアナは再び滝を見上げた。逆巻く水。空へ続く虹。そして、笑った。
「ええ」
「……」
「だって、こんなに素敵なんですもの」
ララノヴァが小さく息を吐く。
「そうおっしゃると思いました」
「次はどこへ行きましょう?」
「もう次のお話ですか?」
「ええ。確かこの近くに、夜になると七色に光る洞窟が――」
「お嬢様」
「なぁに?」
「まず宿を探しましょう」
「まぁ、そうね」
そのときだった。背後から聞き覚えのある声がした。
「君は本当に、これを見るために婚約を破棄したのか」
マリアナが振り返る。数頭の馬。その先頭に乗っている男を見て、目を大きく開いた。
「まぁ」
ラドルフ・ディフォンがいた。いつもの上等な礼服ではなく、長旅用の外套をまとい、少し疲れた顔をしている。
「ラドルフ様」
「ようやく追いついた」
「どうしてこちらに?」
「私にも分からない」
ラドルフは馬から降りた。
「馬に乗り続けて、途中で盗賊が五人縛られているのを見つけて、衛兵から『綺麗な令嬢がやった』と聞いて。まぁ、君だろうなとは思った」
「私ですわ」
「だろうな」
ラドルフはため息をつき、それから初めて、逆流する滝を見る。
「……」
長い沈黙。マリアナが期待を込めて尋ねる。
「いかがです?」
「……凄いな」
マリアナの顔がぱっと明るくなった。
「でしょう!」
「ただ」
「はい?」
「やはり婚約を破棄するほどかは分からない」
マリアナの顔が曇った。
「まぁ……」
「そんなに落ち込むな」
「ラドルフ様なら、少しは分かってくださるかと」
「ついこの前まで、滝が逆流することすら知らなかった男だぞ」
「そうでしたわ」
「だが」
ラドルフは空へ昇る水を眺める。
「君がこれを見ている顔を見て、少しだけ分かったことはある」
「何でしょう?」
「君は、本当に来たかったんだな」
「ええ」
「それだけは、よく分かった」
マリアナは微笑んだ。ラドルフはまだ彼女を理解していないし、マリアナも、理解してもらえるとは思っていない。それでも。
「それで、次はどこへ行く?」
マリアナは目を丸くした。
「ラドルフ様もいらっしゃるの?」
「そのつもりはなかった」
「では」
「だが君を連れ戻そうとしても、また逃げるだろう?」
「逃げるだなんて」
「では戻るか?」
「戻りませんわ」
「だろうな」
ラドルフが苦笑した。
「なら、もう少し君が何をしようとしているのか見てみる」
ララノヴァが横から尋ねる。
「ラドルフ様。公爵家のお仕事はよろしいのでしょうか」
「よくない」
「では、お戻りになられた方が」
「君まで私を追い返さないでくれ」
マリアナは嬉しそうに笑った。
「でしたら、次は七色に光る洞窟へ参りましょう」
「近いのか?」
「馬車で二日ですわ」
「……近いということにしておこう」
「あ、その次は空飛ぶ魚の大移動を」
「待て」
「それから北方に、歌う山が――」
「マリアナ」
「はい?」
「一つずつにしよう」
「まぁ」
マリアナは再び笑った。空へ逆巻く巨大な滝を背に。
こうして侯爵令嬢マリアナ・ガーダリンの、長い旅が始まった。本人だけはまだ知らなかった。この先、自分が見ることになるものが、旅行記に載っている美しい景色だけではないことを。
そして、婚約を解消したはずの男と、この先何度も旅先で顔を合わせることも。




