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『滝が逆に流れるそうなので、婚約を解消します』  作者: NEA_


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2/21

第二話「滝を見たいので、婚約を解消します」



 その日の午後。


 マリアナはディフォン公爵邸を訪れていた。向かいに座るラドルフ・ディフォンは、いつもと変わらず落ち着いていた。


 二十四歳の公爵家嫡男は、艶のある黒髪をきれいに整え、深いエメラルドグリーンの瞳をしている。すらりとした長身に、端正で整った顔立ち。黙っていれば少し近寄りがたく見えるほど隙のない容姿だが、マリアナに向ける表情はいつも穏やかだった。


 若くして父の政務を代行することも多く、社交界では将来有望な貴公子として知られている。そして、一か月後にはマリアナの夫になる予定の男だ。


「それで」


 ラドルフは紅茶を一口飲んだ。


「結婚式の打ち合わせではないんだね?」


「ええ」


「珍しいな。君から私を訪ねてくるなんて」


「そうでしょうか?」


「十一年間で、三回目だ」


「まぁ」


「うち二回は忘れ物を取りに来ただけだった」


「では、実質初めてですわね」


「喜んでいいのか分からないな」


 ラドルフが小さく笑い、マリアナも笑った。それから告げる。


「婚約を解消していただきたいのです」


 ラドルフの手が止まった。紅茶の表面だけが静かに揺れた。


「……もう一度聞こうか」


「婚約を解消していただきたいのです」


「聞き間違いではないらしい」


「はい」


 ラドルフはカップを置いた。怒鳴りもしなければ、取り乱しもしない。


「理由を聞いても?」


「滝を見に行きたいのです」


 沈黙した。長かった。


「……滝?」


「はい」


「滝というのは」


「水が高いところから低いところへ落ちる、あの滝ですわ」


「それは知っている」


「まぁ」


「なぜ滝を見ることと、私との婚約が関係する?」


「逆に流れますの」


「何が?」


「滝が」


 ラドルフは目を閉じた。数秒後、もう一度開く。


「最初から説明してくれないか」


 マリアナはリュシエイル大瀑布について説明した。半年に一度、一週間だけ水が天へ向かって流れること。次に見られるのは十二日後であること。そこまで説明したところで、ラドルフは眉間を押さえた。


「それで婚約を破棄するのか?」


「正確には、それだけではありませんの」


「少し安心した」


「これからもたくさん見たいものがございます」


「安心するのが早かったようだ」


 マリアナは鞄から付箋だらけの旅行記を取り出した。


「こちらをご覧ください」


「嫌な予感しかしないが」


「まず逆流する滝でしょう?」


「まず?」


「その次は、光る森もぜひ」


「待ってくれ」


「もう少ししたら、空飛ぶ魚の大移動が」


「マリアナ」


「はい」


 ラドルフはじっと彼女を見た。


「結婚したくないのか?」


 その問いだけは冗談ではなかった。マリアナも少し黙った。


「あなたが嫌いなのではありませんわ」


「それは慰めになるのかな」


「とても素敵な方だと思っております」


「ありがとう」


「優しいですし」


「ありがとう」


「お顔も整っておりますし」


「そこは今いらない」


「そうなのですか?」


 ラドルフは苦笑した。


「では、なぜ」


「怖くなりましたの」


 マリアナは膝の上で指を組んだ。


「結婚式まであと一か月になって、急に思いました。私はこれから先、ずっと『いつか』と言い続けるのではないかと」


 ラドルフから笑みが消えた。


「令嬢だから、また今度。婚約者だから、また今度。公爵夫人になるから、また今度。ずっとそうでした。気がついたら、おばあさまになっていて、それでも本を眺めながら『見てみたかったわ』と言うのかもしれません。それが、とても怖いのです」


 ラドルフはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「なら、結婚を少し延ばせばいい」


「私も考えましたわ」


「だったら――」


「でも、それでは駄目なのです」


 マリアナはゆっくりと首を振った。


「今回だけなら、それでもよいのかもしれません。でも私は、あの滝を見れば満足して帰ってくるわけではありませんの。次には光る森を見たくなるでしょうし、その次には空を泳ぐ魚も見たくなるでしょう。いつまで旅をしたいと思うのか、私自身にも分かりません」


 マリアナは膝の上で組んだ手に視線を落とした。


「そんな私のわがままで結婚を何度も先延ばしにして、ラドルフ様だけを待たせておくことはできませんわ」


「私は待つと言ったら?」


「それでもです」


 マリアナは顔を上げた。


「婚約者という立場であなたを縛ったまま、私だけ好きなところへ行くなんてしたくありませんもの。ですから――婚約を解消していただきたいのです」


 やがて、ラドルフが口を開いた。


「私には、分からないな」


 マリアナは微笑む。


「そうでしょうね」


「そこは否定してくれないのか」


「ラドルフ様は、滝を見るために五日も馬車に乗りたいとは思われませんでしょう?」


「そうだな」


「でしょう?」


「そもそも滝は逆に流れていても構わない」


「まぁ!」


 マリアナは心底驚いた。


「そちらの方が私には理解できませんわ」


「お互い様らしい」


 ラドルフが額に手を当てる。


「結婚してからでは駄目なのか?」


「本当に行ってもよろしいのですか?」


「それくらいなら――」


「では半年後、二か月後ほど家を空けても?」


「二か月?」


「光る森が遠いので」


「滝ではなかったのか?」


「半年後には別のものを見に行きますわ」


「……なるほど」


 ラドルフが遠い目をした。ようやく理解したのだろう。これは一度の旅行の話ではないのだ。


「これから先も?」


「もちろん」


「何度も?」


「世界中の見たいものがなくなるまで」


「なくなるのか?」


「増えております」


「だろうな」


 ラドルフは椅子へ深く背を預け、そしてため息をついた。


「少し考える時間をくれ」


「はい」


「ただし、一つだけ」


「何でしょう?」


「私が君との婚約解消に納得したと思わないでくれ」


 ラドルフの目は真剣だった。


「私は君と結婚するつもりだった。今もだ」


「……はい」


「でも、私は旅に」


「そこが理解できないと言っている」


 ラドルフは困ったように笑った。


「なぜ君は、滝と私を天秤に載せて、滝を選べるんだ?」


「逆に流れますのよ?」


「知っている」


「一週間だけ」


「それも聞いた」


「でしたら――」


「分からない」


 きっぱり言われた。マリアナは少しだけ頬を膨らませた。


「残念ですわ」


「私の方が残念だ」


 ラドルフはそう言って、初めて本当に困った顔をした。



 三日後。両家の話し合いの末、婚約は解消された。


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