第二話「滝を見たいので、婚約を解消します」
その日の午後。
マリアナはディフォン公爵邸を訪れていた。向かいに座るラドルフ・ディフォンは、いつもと変わらず落ち着いていた。
二十四歳の公爵家嫡男は、艶のある黒髪をきれいに整え、深いエメラルドグリーンの瞳をしている。すらりとした長身に、端正で整った顔立ち。黙っていれば少し近寄りがたく見えるほど隙のない容姿だが、マリアナに向ける表情はいつも穏やかだった。
若くして父の政務を代行することも多く、社交界では将来有望な貴公子として知られている。そして、一か月後にはマリアナの夫になる予定の男だ。
「それで」
ラドルフは紅茶を一口飲んだ。
「結婚式の打ち合わせではないんだね?」
「ええ」
「珍しいな。君から私を訪ねてくるなんて」
「そうでしょうか?」
「十一年間で、三回目だ」
「まぁ」
「うち二回は忘れ物を取りに来ただけだった」
「では、実質初めてですわね」
「喜んでいいのか分からないな」
ラドルフが小さく笑い、マリアナも笑った。それから告げる。
「婚約を解消していただきたいのです」
ラドルフの手が止まった。紅茶の表面だけが静かに揺れた。
「……もう一度聞こうか」
「婚約を解消していただきたいのです」
「聞き間違いではないらしい」
「はい」
ラドルフはカップを置いた。怒鳴りもしなければ、取り乱しもしない。
「理由を聞いても?」
「滝を見に行きたいのです」
沈黙した。長かった。
「……滝?」
「はい」
「滝というのは」
「水が高いところから低いところへ落ちる、あの滝ですわ」
「それは知っている」
「まぁ」
「なぜ滝を見ることと、私との婚約が関係する?」
「逆に流れますの」
「何が?」
「滝が」
ラドルフは目を閉じた。数秒後、もう一度開く。
「最初から説明してくれないか」
マリアナはリュシエイル大瀑布について説明した。半年に一度、一週間だけ水が天へ向かって流れること。次に見られるのは十二日後であること。そこまで説明したところで、ラドルフは眉間を押さえた。
「それで婚約を破棄するのか?」
「正確には、それだけではありませんの」
「少し安心した」
「これからもたくさん見たいものがございます」
「安心するのが早かったようだ」
マリアナは鞄から付箋だらけの旅行記を取り出した。
「こちらをご覧ください」
「嫌な予感しかしないが」
「まず逆流する滝でしょう?」
「まず?」
「その次は、光る森もぜひ」
「待ってくれ」
「もう少ししたら、空飛ぶ魚の大移動が」
「マリアナ」
「はい」
ラドルフはじっと彼女を見た。
「結婚したくないのか?」
その問いだけは冗談ではなかった。マリアナも少し黙った。
「あなたが嫌いなのではありませんわ」
「それは慰めになるのかな」
「とても素敵な方だと思っております」
「ありがとう」
「優しいですし」
「ありがとう」
「お顔も整っておりますし」
「そこは今いらない」
「そうなのですか?」
ラドルフは苦笑した。
「では、なぜ」
「怖くなりましたの」
マリアナは膝の上で指を組んだ。
「結婚式まであと一か月になって、急に思いました。私はこれから先、ずっと『いつか』と言い続けるのではないかと」
ラドルフから笑みが消えた。
「令嬢だから、また今度。婚約者だから、また今度。公爵夫人になるから、また今度。ずっとそうでした。気がついたら、おばあさまになっていて、それでも本を眺めながら『見てみたかったわ』と言うのかもしれません。それが、とても怖いのです」
ラドルフはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「なら、結婚を少し延ばせばいい」
「私も考えましたわ」
「だったら――」
「でも、それでは駄目なのです」
マリアナはゆっくりと首を振った。
「今回だけなら、それでもよいのかもしれません。でも私は、あの滝を見れば満足して帰ってくるわけではありませんの。次には光る森を見たくなるでしょうし、その次には空を泳ぐ魚も見たくなるでしょう。いつまで旅をしたいと思うのか、私自身にも分かりません」
マリアナは膝の上で組んだ手に視線を落とした。
「そんな私のわがままで結婚を何度も先延ばしにして、ラドルフ様だけを待たせておくことはできませんわ」
「私は待つと言ったら?」
「それでもです」
マリアナは顔を上げた。
「婚約者という立場であなたを縛ったまま、私だけ好きなところへ行くなんてしたくありませんもの。ですから――婚約を解消していただきたいのです」
やがて、ラドルフが口を開いた。
「私には、分からないな」
マリアナは微笑む。
「そうでしょうね」
「そこは否定してくれないのか」
「ラドルフ様は、滝を見るために五日も馬車に乗りたいとは思われませんでしょう?」
「そうだな」
「でしょう?」
「そもそも滝は逆に流れていても構わない」
「まぁ!」
マリアナは心底驚いた。
「そちらの方が私には理解できませんわ」
「お互い様らしい」
ラドルフが額に手を当てる。
「結婚してからでは駄目なのか?」
「本当に行ってもよろしいのですか?」
「それくらいなら――」
「では半年後、二か月後ほど家を空けても?」
「二か月?」
「光る森が遠いので」
「滝ではなかったのか?」
「半年後には別のものを見に行きますわ」
「……なるほど」
ラドルフが遠い目をした。ようやく理解したのだろう。これは一度の旅行の話ではないのだ。
「これから先も?」
「もちろん」
「何度も?」
「世界中の見たいものがなくなるまで」
「なくなるのか?」
「増えております」
「だろうな」
ラドルフは椅子へ深く背を預け、そしてため息をついた。
「少し考える時間をくれ」
「はい」
「ただし、一つだけ」
「何でしょう?」
「私が君との婚約解消に納得したと思わないでくれ」
ラドルフの目は真剣だった。
「私は君と結婚するつもりだった。今もだ」
「……はい」
「でも、私は旅に」
「そこが理解できないと言っている」
ラドルフは困ったように笑った。
「なぜ君は、滝と私を天秤に載せて、滝を選べるんだ?」
「逆に流れますのよ?」
「知っている」
「一週間だけ」
「それも聞いた」
「でしたら――」
「分からない」
きっぱり言われた。マリアナは少しだけ頬を膨らませた。
「残念ですわ」
「私の方が残念だ」
ラドルフはそう言って、初めて本当に困った顔をした。
*
三日後。両家の話し合いの末、婚約は解消された。




