第一話「結婚まで、あと一か月」
結婚式まで、あと一か月。
侯爵令嬢マリアナ・ガーダリンは、自室の窓辺に座って、一冊の本を眺めていた。柔らかく波打つ淡い金色の髪が肩から胸元へ流れ、空色の瞳は、先ほどから一つの挿絵に釘付けになっている。
正確には、先ほどから同じページをずっと眺めている。そこに描かれているのは、一筋の大瀑布だった。
巨大な崖から流れ落ちる水だが、普通の滝とは一つだけ違う。水が、下から上へ向かって流れているのだ。見開きいっぱいに描かれた挿絵の下には、こう記されていた。
『リュシエイル大瀑布。半年に一度、七日間のみ、滝の流れが天へと逆巻く』
マリアナは小さく息を吐いた。
「……まぁ」
何度見ても素敵だった。ぜひ一度、自分の目で見てみたい。崖の下から見上げれば、水が青空へ吸い込まれていくのだろうか。朝日を浴びれば、虹も下から上へ伸びるのだろうか。夜になれば、月明かりを受けた水が銀色の柱のように空へ昇るのかもしれない。そう考えるだけで胸が弾んだ。
「ねぇ、ララノヴァ」
「はい、お嬢様」
背後で衣装棚を整理していたララノヴァが振り返る。黒に近い濃い茶色の長い髪を後ろでまとめ、落ち着いた灰色の瞳をした侍女だった。表情も物腰も静かである。
マリアナは嬉しそうに本を掲げた。
「見て。半年に一度ですって」
「存じております。先ほどから十四回ほど同じページをご覧になっておりますので」
「まぁ。そんなに?」
「はい」
ララノヴァは淡々と答えた。
「次に逆流が始まるのは、十二日後だそうですわ」
「そのようですね」
「馬車なら五日ほどでしょうか」
「そのようですね」
「でしたら今から準備すれば――」
「お嬢様」
ララノヴァが静かに遮った。
「はい?」
「一か月後に何がございますか?」
マリアナは黙った。ララノヴァも黙った。部屋に午後の日差しだけが差し込んでいる。やがてマリアナは、そっと本を閉じた。
「……結婚式ですわね」
「はい」
「忘れていたわけではないのよ?」
「存じております」
「少しだけ、忘れていたかったの」
「それも存じております」
ララノヴァとは、互いにまだ子供だった頃からの付き合いだった。マリアナが何を考えているのか、だいたい分かってしまう。
マリアナは本を膝に置き、窓の外を眺めた。よく晴れた空だった。侯爵家の庭園は今日も美しく整えられている。季節の花々、手入れされた生垣、遠くには白い東屋。子どもの頃から、何百回と見てきた景色だ。美しいとは思う。けれど。
「私、何も見ておりませんのね」
ぽつりとマリアナは言った。
「お嬢様?」
「この国には、とてもたくさん不思議なものがあるのでしょう?」
冬にしか咲かない炎の花。夜になると青く輝く湖。地面から何百本もの光の柱が立ち昇る平原。百年に一度だけ姿を現す、砂の都。遥か北方には、空一面を緑の光が覆う夜すらあるという。マリアナは、そういう話が大好きだった。幼い頃から旅行記を読み漁り、地図帳には、行ってみたい場所を小さな印で記していた。いつか見に行こう。いつか。そう思い続けて、もう何年になるだろう。一つも見ていない。
「お嬢様にはお勉強がございましたから」
「ええ」
侯爵令嬢として必要なことは山ほどあった。礼儀作法、歴史、語学、舞踏、音楽、刺繍、領地経営、貴族家系、社交、茶会、晩餐会。十歳になれば一日の予定は朝から夕方まで埋まり、十五歳になれば夜会まで加わった。
唯一、マリアナが自ら進んで続けたものが剣術だった。侯爵家の令嬢に必要かと言われれば、まったく必要ではない。父も最初は護身術程度のつもりだったらしい。ところがマリアナには、妙な才能があった。三年後には指南役から一本を取り、五年後には、屋敷の騎士たちが代わる代わる彼女の稽古相手を務めるようになった。今では父から、『頼むから晩餐会の前日に騎士団長を叩きのめすのだけはやめてくれ』と言われている。それでも剣だけはやめなかった。剣を振っている時間だけは、誰からも「侯爵令嬢らしく」と言われなかったからかもしれない。
「でも、それももう終わりますのね」
マリアナが言った。
「終わる、とは?」
「結婚すれば、私はディフォン公爵家の人間になります」
「はい」
「公爵夫人になるためのお勉強が始まりますわ」
「……はい」
「社交も今より増えるでしょうね」
「おそらくは」
「領地へも行かなくてはならないでしょうし、いずれ子どもも――」
そこでマリアナは言葉を止めた。窓の外を一羽の鳥が横切った。それを小さくなるまで目で追う。
「ララノヴァ」
「はい」
「私、このままだと、一生どこにも行かないのではなくて?」
ララノヴァは答えなかった。答えられなかったのだろう。公爵家の夫人が、半年に一度だけ逆流する滝を見るため、片道五日の道のりを馬車で飛び出していく。普通はしない。少なくとも、社交界では聞いたことがない。
「結婚してからでも旅行はできると思います」
ララノヴァは慎重に言った。
「ええ。きっと避暑地くらいには」
「……」
「公爵家の別邸にも行けるでしょうね」
「……」
「でも私は、別荘を見たいわけではありませんの」
マリアナはもう一度、本を開いた。天へ昇る滝。
「これが見たいの」
ララノヴァが長く息を吐いた。
「大変申し上げにくいのですが」
「はい」
「リュシエイル大瀑布の逆流は、結婚式の十一日前に終了いたします」
「そうなのよ」
「そして次は半年後です」
「そうなのよ」
「その頃には、お嬢様はディフォン公爵家に嫁がれております」
「そうなのよ」
マリアナは本を閉じ、そしてにっこり笑った。
「ですので、婚約を解消してまいります」
「はい?」
「今日ならまだ間に合いますわ」
「何にですか?」
「滝に」
「結婚式ではなく?」
「滝に」
ララノヴァはしばらく動かなかった。
「……お嬢様」
「なぁに?」
「先ほどまでの深刻そうなお顔は、まさか」
「とても悩みましたわ」
「どの程度」
「昨日の夜から」
「短いです」
「でも、一晩中よ?」
「十一年続いた婚約を、一晩で?」
「十一年も考えなかったことですもの。十分ではなくて?」
「十分ではございません」
マリアナは首を傾げた。
「そうかしら」
「そうです」
「でも私、もう決めましたわ」
その声はいつも通りだった。柔らかく、穏やか。だからこそララノヴァは頭を抱えた。この主人がこういう声で「決めました」と言ったとき、まず覆らないことを知っている。




