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『滝が逆に流れるそうなので、婚約を解消します』  作者: NEA_


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第三十話「空へ昇る光」



 次の瞬間。


 その光が、真っ直ぐに空へ伸びた。


「……まぁ」


 マリアナは息を呑んだ。


 細い一本の光だった。地面から生まれ、夜空を貫くようにどこまでも高く伸びている。先端は見えない。星の間へそのまま溶け込んでいるようだった。


 けれど、それで終わりではなかった。


 少し離れた場所に、二つ目の光が生まれる。


 その向こうにも。


 さらに遠くにも。


 暗かった高原のあちこちから、次々と光が立ち上がっていく。


 光はどれも同じではない。細く鋭いものもあれば、大人が両腕を広げたほどの太さに見えるものもある。淡い金色、青みを帯びた白、ほんの僅かに緑がかったもの。遠くに生まれた光ほど霞み、夜の高原に幾重もの奥行きを作っていた。


 やがて、数えることなどできなくなった。


 百本を超えているのか。


 二百本なのか。


 もっとあるのか。


「すごい……」


 ラドルフが呟いた。


 マリアナは返事もできなかった。


 見渡す限りの大地から光が立ち上がり、頭上の星空へ向かって伸びている。


 風が吹いた。


 草原が大きく波打つ。


 すると光の根元も揺らいだ。消えることはなく、風に合わせて僅かに細くなり、また元の太さへ戻る。


「……本当に、大地から空へ昇っておりますのね」


「ええ」


 ララノヴァも目を離せずにいた。


 旅行記の挿絵では、何度も見た。


 けれど、絵には高さがなかった。


 自分のすぐ近くから空の果てまで伸びていく光を見上げる感覚も、何百本もの光に囲まれている感覚も、本の頁から想像できるものではなかった。


 マリアナはゆっくり歩き出す。


 近くに立ち上がっている一本へ近づくと、光の正体はますます分からなくなった。


 炎ではない。


 熱も感じない。


 地面の一点から、淡い光だけが真上へ伸びている。


 手を伸ばしかけたところで、案内人が笑った。


「触っても何もありませんよ」


「触れないのですか?」


「ええ。子供の頃に何度も試しました」


 マリアナはそっと光の中へ手を入れた。


「……まぁ」


 何の感触もない。


 けれど、手の甲も指先も淡い金色に染まった。


 手を引けば、すぐに元へ戻る。


「不思議ですわ」


「原因は分かっているのですか?」


 ラドルフが案内人へ尋ねる。


「いいえ。昔からいろいろな人が調べていますが、はっきりとは」


「そうなのですね」


 マリアナは少し嬉しそうに言った。


「分からないままなのが嬉しいの?」


「少しだけ」


「どうして?」


「だって、まだ誰も知らないことが、この世界には残っているのでしょう?」


 ラドルフは一瞬黙り、それから笑った。


「なるほど。君らしいね」


 遠くで、新しい光がまた一本立ち上がった。


 高原はもう、昼間とはまるで別の場所だった。


 何もないと思っていた広い草原。


 その何もなかった大地いっぱいに、数え切れないほどの光がある。


 マリアナはその場でゆっくり一回転した。


 どちらを向いても光。


 その間に星空。


 地上と空の境目さえ、分からなくなりそうだった。


「ララノヴァ」


「はい」


「来てよかったですわね」


「ええ。本当に」


 ララノヴァも笑っていた。


「少し向こうを見てまいります」


「お一人で?」


「案内人の方もいらっしゃいますので」


 そう言うと、ララノヴァは案内人とともに少し離れた場所へ歩いていった。


 マリアナはそれを見送り、再び空を見上げる。


 隣にはラドルフがいた。


「ラドルフ様」


「うん?」


「どうです?」


「すごいよ」


「それだけですの?」


「君に感想を求められる日が来るとは思わなかったな」


「私ばかりお話しするのも不公平でしょう?」


 ラドルフは笑い、それから光の向こうに広がる夜空を見た。


「うまく言えないんだ」


「まぁ」


「今まで君が、言葉では全部伝えられないと言っていた意味が分かった」


 マリアナは少しだけ目を見開いた。


「そうでしょう?」


「ああ」


 ラドルフはしばらく何も言わなかった。


 その横顔を、マリアナは黙って見ていた。


 満月の海に現れた白い道。


 あの夜も嬉しかった。


 けれど今は、それとは少し違う。


 ラドルフはもう、マリアナに連れられてここへ来たのではない。


 自分から、この景色を見たいと言った。


 同じものを楽しみにして、同じ道を歩いてきた。


「マリアナ」


「はい?」


 名前を呼ばれて顔を上げると、ラドルフは景色ではなく、マリアナを見ていた。


「これからも、旅を続けるんだね」


「もちろんですわ。まだ見ていないものが、たくさんございますもの」


「ああ。そうだと思った」


 ラドルフは少しだけ笑う。


「前に君と婚約したときは、家同士が決めたことだった。私も、それが当然だと思っていた」


 マリアナは黙って聞いている。


「でも、今度は違う」


 何百本もの光が、二人の周囲から夜空へ伸びている。


「私が、自分で決めて言う」


 ラドルフはまっすぐにマリアナを見た。


「マリアナ。私と結婚してほしい」


 マリアナはすぐには答えなかった。


 驚いていた。


 けれど、嫌だったからではない。


 自分の中にある答えを、きちんと確かめたかった。


「ラドルフ様」


「うん」


「私は、これからも旅をいたしますわ」


「ああ」


「ディフォン公爵家に嫁げば、今までのようにはいかないことも分かっております。それでも、見たいものを諦めるつもりはございません」


「分かっている」


 ラドルフの答えは穏やかだった。


「毎回一緒に行けるとは約束できない。私にも仕事があるからね」


「ええ」


「でも、行けるときは一緒に行きたい。行けないときは、帰ってきた君の話を聞かせてほしい」


 マリアナは彼を見つめる。


「そして、私が見たいと思った場所には、君にも付き合ってほしい」


「まぁ」


 マリアナは思わず笑った。


「ラドルフ様にも、見たい場所ができたのですね」


「もう、いくつかあるよ」


 その答えを聞いて、マリアナは目の前に広がる光の高原を見渡した。


 かつてラドルフとの結婚は、幼い頃から決められていた未来だった。嫌だったわけではない。ラドルフのことも好ましく思っていた。ただ、それ以上でも、それ以下でもなかった。


 結婚するのだと言われて育ち、その通りに結婚するのだと思っていた。


 けれど、旅に出てからは違った。


 見たかった景色を自分の目で見た。知らなかった町を歩き、知らなかったものを食べ、旅行記だけでは分からなかった音や匂いを知った。


 そしていつからか、美しい景色を見るたびに、ラドルフにも見せたいと思うようになった。


 一緒に見られた日は、それだけで嬉しかった。


 離れているときには、見たものを話したかった。


 今では、次の景色を彼と一緒に楽しみにしている。


 マリアナはようやく、はっきり分かった。


 自分は旅が好きなのだ。


 そして、ラドルフのことも好きなのだ。


 今度は誰かに決められたからではない。


 自分で選んで、この人と一緒にいたい。


「はい」


 マリアナはラドルフを見る。


「結婚いたしましょう、ラドルフ様」


 ラドルフの表情がゆっくりと緩んだ。


「……ありがとう」


 その瞬間、二人のすぐ近くから新しい光が立ち上がった。淡い金色の光が真っ直ぐに夜空へ伸び、頭上の星々へ溶けていく。


 マリアナとラドルフは同時にそれを見上げた。


 二人で同じ景色を見ていた。




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