第二十九話「まだ見たことのない景色へ」
それから三日後。
王都へ続く街道の警戒は、ほとんど解かれていた。
メティルディン男爵家とナラブリット子爵家の兵もすでに領地へ戻り、シクルル村では王家から派遣された医師たちが負傷者の治療に当たっている。
宰相がそれ以前の警告にどこまで関わっていたのか、協力した者がいるのかについては、まだ調査が続いていたが、もうマリアナたちが王都に残る必要はなかった。
「本当に、もう行くのか?」
ガーダリン侯爵邸の玄関前で、父が尋ねた。
「はい。ずいぶん長い寄り道になってしまいましたもの」
「屋敷へ戻ってきたことを寄り道と言う娘も、なかなかいないだろうな」
「旅の途中でしたから」
「そうだったな」
父は呆れたように笑った。
その少し後ろでは、ララノヴァが最後の荷物を馬車へ積み込ませている。以前と同じ旅行鞄。その中には旅行記も、旅先で手に入れたものも、ラドルフから贈られた銀色の硝子の魚も入っていた。
そこへ、もう一台の馬車が屋敷の前に止まる。
「お待たせしました」
旅装姿のラドルフが降りてきた。
「時間通りですわ」
「ラドルフ殿も行くのか?」
「ええ。しばらく領地を空けても問題ないよう、父と話をつけてきました」
ガーダリン侯爵が笑う。
「今度は前のように、仕事を放り出して追いかけてきたわけではありません」
「それなら何よりだ」
ラドルフも苦笑した。
「では、お父様。行ってまいります」
「ああ。気をつけてな」
「はい」
マリアナは馬車へ乗り込んだ。
続いてララノヴァが乗り込み、ラドルフは向かいの席へ座った。
しばらくして馬車が動き始めた。
見慣れた王都の建物が窓の外を流れていき、やがて大きな門を抜ける。その先には、どこまでも街道が続いていた。
「……出ましたわね」
「ええ」
ララノヴァが答える。
マリアナは窓を少し開けた。外から入ってきた風が髪を揺らす。
「嬉しそうだね」
ラドルフが言う。
「もちろんですわ。また旅ができますもの」
ラドルフも窓の外を見る。
「私も、少し分かるようになった気がするよ」
「何がですの?」
「王都を出ると、次は何が見られるんだろうと思う」
マリアナの顔が明るくなった。
「まぁ」
「そんなに驚くことかな」
「嬉しいのですわ」
そう答えて、マリアナは旅行記を取り出した。
「光る森は、まだ少し時期が先ですものね。その前に行く場所を決めましょう」
「やっとお決めになるのですね」
ララノヴァが言う。
「ふふっ」
何度も開き、何度も閉じてきた本だった。頁の端は少し擦れ、幼い頃につけた印も残っている。
マリアナはゆっくり頁をめくった。
逆流する大瀑布。
七色に光る洞窟。
空を渡る銀色の魚。
雲海の上に咲く花。
海の中に現れる白い道。
風が歌うエルシェナ山。
かつて頁の中にしかなかった景色が、今ではどれも自分の記憶の中にある。
そして、一枚の頁で手を止めた。
「……次は、ここにいたしますわ」
ララノヴァが横から覗き込む。
「ああ、こちらでございますか」
頁いっぱいに描かれているのは、広大な高原だった。
夜空の下、地面から無数の光が立ち上がっている。一本や二本ではない。何十本、何百本もの光の柱が大地から天へ向かって伸び、その先は星空の中へ溶けるように消えていた。
マリアナが幼い頃から、何度も眺めてきた頁だった。
「地面から何百本も光が伸びるの?」
ラドルフが言った。
「ええ。何百本もですわ」
「それは確かに見てみたいな」
マリアナは挿絵へ視線を落とす。
滝も、花畑も、月の道も、本で見ていたものとはまるで違った。
絵には音がない。風も、匂いもない。
そこに立ってみなければ分からないものが、必ずあった。
「今度は、どんな景色なのでしょうね」
マリアナは顔を上げる。
「ラドルフ様も楽しみですの?」
「ああ。見てみたい」
迷いのない返事だった。
マリアナは嬉しそうに笑う。
「では、決まりですわね」
*
それから十二日後。
三人は高原の麓にある小さな村へ辿り着いた。
そこから先は馬車で進めないため、必要な荷物だけを持ち、村で雇った案内人とともに歩いて登ることになった。
「今日中には着けますか?」
「夕方には」
案内人を務める三十代ほどの男が答えた。
「ただ、光が見られるのは暗くなってからです。高原に観光客用の小屋がありますから、そこで夜を待つといいでしょう」
「本当に、何百本も見えるのですか?」
今度はラドルフが尋ねた。
「多い日はね」
男は笑った。
「私はここで生まれましたから何度も見ていますが、それでも何本あるのかは知りません」
「数えたことは?」
マリアナが尋ねる。
「子供の頃に。途中で分からなくなりました」
「では、私も数えてみようかしら」
山道そのものは険しくなかった。背の低い草の間を細い道が続き、高度が上がるにつれて麓の村が小さくなっていく。
途中で何度か休憩しながら進み、日が西へ傾き始めた頃。
「もうすぐですよ」
案内人が言った。
坂を登りきった瞬間、視界が開ける。
「……まぁ」
山の上とは思えないほど広い高原だった。
背の低い草が遥か先まで続き、風が吹くたびに高原全体が大きく波打っている。視界を遮る木々もなく、その上には大きな空だけが広がっていた。
「ここなのですね」
「ええ」
マリアナは鞄から旅行記を取り出した。
何度も見てきた頁を開き、目の前の景色と見比べる。
旅行記に描かれているのは、何百本もの光が立ち上がる夜の高原。
けれど今は、ただ風に草が揺れているだけだった。
「不思議ですわね」
「何が?」
ラドルフが隣へ来る。
「何度もこの頁を見てきましたけれど、昼の姿を想像したことはありませんでしたわ」
「本には載ってないの?」
「夜の絵だけですの」
ラドルフも頁と高原を見比べる。
「これも、本にはなかった景色だね」
「ええ」
マリアナは笑った。
それから三人は高原の端にある小屋へ荷物を置き、日が沈むのを待った。
*
夜になると、高原の空気は急に冷えた。
外套を羽織って外へ出る。
街の灯りはどこにもない。
頭上には、数え切れないほどの星が広がっていた。
「これだけでも、来た甲斐がありますわね」
「まだ始まっておりませんよ」
ララノヴァが言う。
「分かっております。でも、綺麗ですもの」
少し離れた場所にいた案内人が、やがて立ち上がった。
「そろそろです」
マリアナもすぐに立つ。
「どこを見れば?」
「どこでも」
「どこでも?」
「始まれば分かります」
三人は高原の中央へ向かった。
暗闇の中、風が草を揺らす音だけが聞こえる。
しばらく待った。
何も起こらない。
マリアナは旅行記を抱えたまま、目の前の高原を見つめていた。
そのとき。
「あ」
ラドルフが声を上げた。
「どうしましたの?」
「あそこ」
ラドルフが指差す。
遠くの草原に、小さな白い光が生まれていた。
星ではない。
地面の上。
ほんの一点だけが、淡く輝いている。
「……始まりましたわ」
マリアナが呟く。
次の瞬間。
その光が、真っ直ぐに空へ伸びた。




