第二十話「砂の下の黄金」
噴水から噴き上がった水が、夜空へ白い弧を描いた。その瞬間、街のあちこちに淡い光が灯り始めた。
「まぁ……!」
マリアナの声が弾む。一つ、二つ。大通りに並ぶ街灯が、まるで眠りから覚めるように順番に明るくなっていく。白い建物の窓辺にも小さな灯り。回廊にも。塔にも。ほんの少し前まで砂しかなかった場所に、夜の都が現れていた。
「本当に明かりまで灯るんだね」
隣でラドルフが呟く。
「ええ! 旅行記に書かれていた通りですわ!」
「分かったから、そんなに引っ張らないで大丈夫だよ」
いつの間にかマリアナは、ラドルフの袖を掴んでいた。
「あら」
手を離す。
「申し訳ありません」
「別に構わないよ」
ラドルフは笑った。周囲では待っていた旅人たちも次々に立ち上がり、歓声を上げる者、呆然と見つめる者、早くも砂海へ歩き出す者がいる。野営地にいた案内人が、大きな声を張り上げた。
「夜明け前には必ず戻ってください! 街に鐘が三度鳴ったら帰路についてください! ラグナシアが沈み始めてからでは間に合いません!」
「参りましょう!」
マリアナがすぐに歩き出す。
「お嬢様」
「聞いておりましたわ。鐘が三度でしょう?」
「なら結構です」
「ラドルフ様も」
「ああ」
三人は、旅人たちとともに砂海を歩き始めた。
*
近づくほど、ラグナシアの巨大さが分かった。正面に立つ白い門は、遠くから見ていたときより遥かに高い。巨大な二本の石柱。その上には翼を広げた鳥のような彫刻があり、柱の表面には見たことのない文字が刻まれている。
「何と書いてあるのでしょう」
「さすがに私にも分からないな」
「ラドルフ様にも?」
「私を何だと思っているんだい?」
「大体何でもご存じですから」
「千年以上前の文字までは読めないよ」
三人で門をくぐった。その先に広がっていた光景に、マリアナはまた足を止めた。
「……綺麗」
白い石畳が、真っ直ぐ街の中央まで続いている。両側には何階もある石造りの建物。窓には青や赤や緑の硝子が嵌め込まれ、街灯の光を受けて淡く輝いていた。通りの脇には細い水路があり、澄んだ水が静かに流れている。人だけがいない。灯りがある。水がある。街は完全な姿で残っているのに、住人だけがどこにもいなかった。
「不思議ですわね」
「ああ」
「今にも、あちらのお店から誰か出てきそうです」
マリアナが指差した先には、店らしき建物がある。硝子越しに棚が見えた。その隣には椅子と丸い卓。さらに奥の建物には、壁一面に色鮮やかな模様が描かれている。
「誰もいないという方が、不思議なくらいですね」
ララノヴァも周囲を見回している。マリアナは少し進んでは止まり、また進んでは止まった。
「見てくださいな」
「見ているよ」
「あちらの橋も」
「見えている」
「ララノヴァ、あの窓!」
「はい」
「青いですわ!」
「青いですね」
「お二人とも、もう少し驚いてくださいな」
「驚いているよ」
「私もです」
「まぁ」
ラドルフも楽しそうだった。
中央広場まで来ると、巨大な噴水の全貌が見えた。何段にも重なる白い水盤。その中央から高く噴き上がった水が、月明かりを受けて銀色に輝いている。さらに水盤の周囲には、細かな彫刻がびっしりと施されていた。
「これは……」
マリアナが近づく。水盤の周囲には、山から流れ出す川、その先に広がる森や平原、さらに海へと続く景色が、一続きの彫刻として刻まれていた。その中には鳥や獣、魚、花まで描かれている。
「まるで、一つの世界を描いているみたいですわね」
ラドルフも隣から覗き込む。
「この街が栄えていた頃の景色なのかもしれないね」
「千年以上も前の?」
「ああ。今とは随分違っているだろうけど」
「では、この街に住んでいた方々が見ていた景色なのかもしれませんのね」
マリアナはもう一度、彫刻へ目を落とした。
「そう思うと、なんだか不思議ですわ」
マリアナは噴水を見上げた。
「ラドルフ様」
「うん?」
「今度も、一緒に見られましたわね」
一瞬、ラドルフが黙った。それから柔らかく笑う。
「……そうだね」
マリアナはまた噴水を見る。ララノヴァは二人から少しだけ視線を逸らしていた。
*
それから三人は、大通りを外れて街の奥へ進んだ。旅人の姿は少なくなっていく。ほとんどの者は中央広場や大通りを見て回っているらしい。
「こちらは随分静かですわね」
「元から街全体が静かですけれど」
「そういう意味ではありません」
道も細くなった。左右には背の高い建物が並び、その間を白い石畳が曲がりながら続いている。
「あら」
マリアナが立ち止まる。
「今度は何だい?」
「あそこです」
建物と建物の間に、細い階段があった。下へ続いている。
「地下でしょうか」
「行かないよ」
ラドルフが即答した。
「まだ何も言っておりませんわ」
「顔に書いてある」
「ララノヴァと同じことをおっしゃいますのね」
「お嬢様は分かりやすいので」
「ひどいですわ」
マリアナは階段を覗き込む。暗い。下の方は何も見えない。
「今回はやめておこう」
「そうですわね」
意外にもマリアナは素直に頷き、ラドルフが少し驚いた顔をする。
「何ですの?」
「いや。もっと粘るかと思っていた」
「私だって、夜明けになれば街ごと砂へ沈む場所の地下へ入ろうとは思いませんわ」
「安心したよ」
三人が再び歩き出す。その直後だった。
カチッ。
「……?」
小さな音がした。マリアナが足を止める。
「何か――」
言い終わる前に、足元の石畳がわずかに沈んだ。
「え?」
次の瞬間、数枚の石板が音もなく横へ滑った。
「マリアナ!」
突然開いた暗闇へ、マリアナの身体が落ちる。咄嗟にラドルフが腕を掴んだが、その勢いに引かれてラドルフも体勢を崩した。
「ラドルフ様!」
「お嬢様!」
ララノヴァが手を伸ばす。けれど足元の石板がさらに動き、三人まとめて暗闇へ落ちた。
直後。頭上で、重い石が擦れる音がした。
ゴゴゴ……。
開いていた石板が元の位置へ戻っていく。最後に細い光が消えた。
そして、何事もなかったかのように石畳は閉じた。
*
「……痛いですわ」
最初に聞こえたのは、マリアナの声だった。
「お嬢様!」
「大丈夫です」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
「私も大丈夫だ」
少し離れたところからラドルフの声もする。完全な垂直ではなかったらしい。崩れた床の下は急な斜面になっていて、三人は砂と一緒に滑り落ちてきたようだった。マリアナは身体を起こした。
「ララノヴァ?」
「おります」
「ラドルフ様?」
「ここにいるよ」
三人とも怪我らしい怪我はない。
「よかった……」
マリアナが息を吐く。
「それで」
ラドルフの声がする。
「ここはどこなんだろうね」
「暗くて分かりませんわ」
ララノヴァが携帯用の灯りを取り出した。小さな火が灯る。その光が、目の前の壁を照らした。
「……え?」
マリアナが声を失った。壁が、光った。いや、壁そのものが。
「これは……」
ラドルフも言葉を止めた。ララノヴァが灯りを高く掲げ、光が広がっていく。そして三人は、ようやく自分たちがいる場所を見た。
「……まぁ」
マリアナの口から、かすかな声が漏れた。
黄金だった。壁も。床も。天井も。すべてが淡い金色に輝いている。ただ金を貼りつけただけではない。壁には無数の小さな黄金の板が嵌め込まれ、それぞれに細かな模様が刻まれていた。花、鳥、星、月、知らない動物、知らない植物。それらが幾重にも繋がり、部屋全体で一枚の巨大な絵を作っている。天井には、黄金の蔓が絡み合うような装飾。その間には青や赤、緑の小さな宝石が嵌め込まれていた。ララノヴァが持つ小さな灯りを受けるだけで、部屋中に、金、青、赤、緑の無数の光が散っていく。
「……」
誰もすぐには話せなかった。これまで、いくつもの景色を見てきた。天へ昇る滝、七色に光る洞窟、空を渡る銀色の魚、雲海の上に咲く花、満月の海に現れる白い道、風に歌う山。そして、砂から現れた白い都。けれど、これはそのどれとも違った。
「……すごいですわ」
ようやくマリアナが呟いた。声まで小さくなっていた。壁際には黄金の柱が並び、その一本一本に透明な石が埋め込まれている。奥には大きな円形の床があり、中央には黄金の花のようなものが飾られていた。花びら一枚一枚が薄い黄金でできている。けれど不思議なことに。
「ラドルフ様」
「ああ」
「光っておりますわよね?」
「そう見える」
灯りの届かないはずの奥まで淡く輝いており、黄金の花そのものから柔らかな光が漏れていた。マリアナはゆっくりと近づいた。
「こんなもの、旅行記には……」
「書かれていなかったね」
「はい」
誰も知らないのだろうか。毎年多くの旅人がラグナシアへ来る。それでも、この部屋のことをマリアナは一度も読んだことがない。黄金の花の前まで来て、立ち止まる。その向こうの壁には一枚の巨大な絵が描かれていた。白い都、そして都の上には夜空と無数の星。今夜、地上で見たものと同じだった。
「……ララノヴァ」
「はい」
「私」
マリアナは振り返った。目を輝かせていた。
「落ちてよかったかもしれませんわ」
「よくありません」
即答だった。ラドルフが吹き出した。
「そこはララノヴァに賛成だ」
「でも、こんな場所が見られましたのよ?」
「それと落下したことは別問題だよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
マリアナは少しだけ笑った。それから、もう一度黄金の部屋を見渡した。外では多くの旅人がラグナシアを歩いている。けれどその誰も知らない場所、砂の下、さらにその下にこれほど美しい部屋が隠されていた。マリアナは胸が高鳴るのを感じていた。
そして同時に、一つだけ思い出す。この街は、夜明けになれば、再び砂の中へ沈む。




