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『滝が逆に流れるそうなので、婚約を解消します』  作者: NEA_


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第十九話「砂海の幻都」



 サハルディアを発って二日目の夕方。隊商は、見渡す限り砂しかない場所で足を止めた。


「……何もございませんわね」


 砂駱獣から降りたマリアナは、目の前に広がる景色を見つめた。


「本当に何もないね」


 隣へ降りたラドルフも砂海を見渡す。


「ええ。何もございませんね」


 最後にララノヴァが降りてきた。右も、左も、正面も。風に削られた砂丘が幾重にも連なり、その向こうへ夕日が沈みかけている。草も木もなく、道らしい道すらない。


「本当に、ここへ街が現れますの?」


「案内人の話では、この辺りで間違いないそうです」


「旅行記にもそう書かれておりますものね」


 マリアナは鞄から旅行記を取り出した。何度も開いた頁には、砂海の中央に立つ白い都が描かれている。ラグナシア。一年に一度、たった一夜だけ現れるという、人の住まない古い都。


 けれど今、目の前には何もない。塔も、宮殿も、石畳も、噴水も。あるのは夕日に染まった砂だけだった。


「明日の夕方ですわね」


「ああ」


 マリアナは旅行記と砂海を見比べる。


 ここはラグナシアを見る旅人たちが集まる、砂海の端の野営地だった。建物こそないものの、大小いくつもの天幕が張られ、隊商の砂駱獣が繋がれている。火を起こして夕食を作る者、荷物を確認する者、砂の上に座って酒を飲む者。この場所だけが、小さな町のように賑わっていた。


「ずいぶん人がいらっしゃいますのね」


「一年に一度だからね」


 近くでは年老いた夫婦が並んで座り、少し離れたところには十人ほどの旅人の集団がいる。大きな荷を積んだ商隊もいれば、見るからに裕福そうな旅人もいた。


 マリアナはしばらく、その光景を眺めた。


「なんだか嬉しいですわ」


「何がです?」


「皆様、同じものを見たくて、こんな遠くまでいらしたのでしょう?」


 旅に出る前は、自分だけが変なのだと思っていた。わざわざ何日も馬車に揺られて、不便な土地へ行って、一度しか見られないものを見る。そんなことのために婚約まで解消する自分は、きっと随分変わっているのだろうと。


 もちろん、婚約まで解消した者はこの中にもそうはいないだろうけれど。


 それでも、見たいと思う人はこんなにもいる。


「来てよかった?」


 ラドルフが尋ねる。


「もちろんですわ」


 マリアナは即答してから、何もない砂海へ目を向けた。


「それに、今しか見られない景色ですもの」


「今?」


「明日には、ここに街が現れるのでしょう?」


 ラドルフも砂海を見る。


「……そうか」


「何ですの?」


「何もない今も、君にとっては見るものなんだね」


「ええ」


 マリアナは笑った。


 ラドルフはもう一度、夕日に染まる砂海を眺めた。


「少し分かってきた気がするよ」


 その言葉が嬉しくて、マリアナも再び砂海へ目を向けた。



 その夜。三人は隊商と同じ焚き火の近くで夕食を取っていた。薄く焼いた平たいパンに、豆と細かく刻んだ野菜を煮込んだ料理を載せて食べる。


「辛いですわ。でも美味しい」


「それ、先ほどから何度目です?」


「美味しいものは何度言ってもよいのです」


 ララノヴァが小さく笑った。


 少し離れた焚き火では、商人たちが明日のラグナシアについて話している。


「去年は南門から入ったんだ」


「俺は中央広場までしか行かなかったぞ」


「夜明け前には戻れよ。今年も街ごと沈むんだからな」


 マリアナの手が止まった。


「中へ入れるのですわね」


「そのために来たんだろう?」


「もちろんですわ」


「なら、戻る時間だけは忘れないようにね」


「分かっております」


 答えたところで、別の焚き火から声が聞こえた。


「東の街道、また検問が増えたらしいぞ」


「ディフォン側が兵を動かしてるって話だろ?」


「俺が聞いたのは逆だ。ガーダリン側が集めてるって話だったぞ」


「また違うのか」


 商人たちは首を傾げながらも、すぐに別の話題へ移っていった。


 マリアナはラドルフを見る。


「今度は、兵ですのね」


「ああ」


「セレナディアを出るときには?」


「そんな話はなかった」


 マリアナの表情が曇る。


「噂が大きくなっておりますわね」


「そうだね」


 ラドルフは焚き火の向こうを見た。


「覚えておこう。今はそれでいい」


「ええ」


 マリアナも頷いた。


 気にはなる。けれど、ここで考えても答えは出ない。そして明日は、一年に一度だけ現れる都を見る日だった。



 夜が更けた頃。天幕へ戻ろうとしたマリアナは、ふと空を見上げて足を止めた。


「……まぁ」


 空一面を、数え切れないほどの星が埋め尽くしていた。周囲には町も家もなく、灯りもほとんどない。王都で見る夜空とはまるで違う。地平線のすぐ上まで星が続き、空そのものが淡く光っているようだった。


「ララノヴァ。ラドルフ様も、見てくださいな」


 二人も足を止め、同じ空を見上げる。


「……すごいね」


「でしょう?」


 マリアナは嬉しそうに笑った。


「旅行記には、この空のことは書かれておりませんでしたわ」


「ラグナシアを見に来たから、見つけられた景色か」


「ええ」


 マリアナはもう一度、星空を見上げる。


「それに今回は、一緒に見られましたわね」


 ラドルフがマリアナを見る。


「エルシェナの歌は、お話しすることしかできませんでしたもの」


「ああ」


「やっぱり、一緒に見た方が嬉しいです」


 少しだけ間を置いて、ラドルフが笑った。


「私もそう思うよ」


 三人はしばらく、何も言わずに星を見上げていた。



 翌日。


 ラグナシアが現れるのは日没だというのに、昼を過ぎる頃には多くの旅人が砂海の前へ集まり始めていた。マリアナも敷物の上に座り、何もない砂海を見つめている。


「まだ三時間以上あるよ」


「分かっておりますわ」


「さっきからずっと見ているけど」


「現れる前の景色も見ておきたいのです」


 ラドルフは少し笑い、隣へ腰を下ろした。


 やがて太陽が傾き始めた。


 青かった空が金色へ、そして橙色へ変わっていく。いつの間にか周囲の話し声も消え、何十人もの旅人が同じ砂海を見つめていた。


「そろそろだ!」


 誰かが声を上げる。


 夕日が地平線へ触れた。


 その瞬間、砂海が動いた。


「……え?」


 遠く、何もなかったはずの場所で、大量の砂が左右へ流れ落ちていく。その下から、白い尖塔の先端がゆっくりと姿を現した。


 一本、二本。さらにその周囲でも砂が崩れ、屋根が、壁が、回廊が次々と現れていく。砂は建物の表面を滝のように流れ落ち、その下から白い都が少しずつ姿を取り戻していった。


 マリアナは目を見開いている。


 巨大な門。幾本もの尖塔。長く続く白い街路。そして最後に、都の中央にある大きな噴水が砂の中から姿を現した。


 誰も声を上げなかった。


 ほんの少し前まで何もなかった砂海に、一つの都市が立っている。


「ラグナシア……」


 旅行記で何度も見た都だった。


 けれど、挿絵よりもずっと大きい。想像していたよりも、ずっと美しい。


 マリアナは隣を見る。


「ラドルフ様」


「ああ」


「来てよかったでしょう?」


 ラドルフは白い都を見つめたまま笑った。


「ああ。来てよかった」


 夕日が完全に沈む。


 その瞬間、都の中央から水音が響いた。


 噴水から一本の水が高く噴き上がり、続いて白い街路に一つ、また一つと明かりが灯っていく。


 砂海の幻都ラグナシア。


 一年に一度だけの夜が、始まった。



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