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『滝が逆に流れるそうなので、婚約を解消します』  作者: NEA_


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第十八話「知らない私たちの噂」



 その日の夜。夕食を終えた三人は、宿の二階にある小さな談話室へ移っていた。窓は大きく開け放たれている。昼間は息をするだけでも暑かったサハルディアだが、日が沈むと乾いた風が心地よかった。テーブルの上には、食後に出された甘い香草茶が置かれている。


「それで」


 マリアナは向かいに座るラドルフを見る。


「何が分かりましたの?」


「まず、君の父上とうちの父が争っているという事実はない」


「では、やっぱり噂なのですね」


「噂ではあるんだけどね」


 ラドルフは持ってきていた鞄から何枚かの紙を取り出し、一枚をマリアナの前へ置いた。


「これは、私がセレナディアへ戻ったあとに届いた手紙だ。北部の伯爵家から父上へ送られてきた」


 マリアナが目を通す。書かれているのは、ガーダリン侯爵家との関係についてだった。


「今後もガーダリン侯爵家と共同で進めていた街道整備を続けるのか……?」


「婚約解消をきっかけに、両家の関係が悪化したという話を聞いたらしい」


「でも、お父様たちはそんなお話をしておりませんわ」


「もちろん」


 次の紙が置かれる。


「こっちは南側の子爵家だ」


 内容は違った。ディフォン公爵家がガーダリン侯爵家との取引を止めようとしているため、どちらと付き合いを続けるべきか判断したいと書かれている。


「……今度はラドルフ様のお家が怒っておりますの?」


「そういうことになっているらしい」


「怒っております?」


「父上は君が旅に出たことより、私が仕事を放り出して追いかけたことに怒っている」


「それは仕方ありませんわね」


「私もそう思う」


 さらに一枚。


「王都では、君が私に婚約を解消されたという話まである」


「逆ですわ」


 ラドルフが少し笑ったが、すぐに真面目な表情へ戻った。


「全部、少しずつ違う」


 マリアナも手元の紙を見る。


「そうですわね」


「誰か一人が言った話が、そのまま広がっているなら分かる。でも北ではガーダリン家が怒っていて、南ではディフォン家が怒っている。王都では私が君を捨てたことになっている」


「街道では、お父様がディフォン公爵家とのお付き合いを減らしていると聞きましたわ」


「ああ」


「フェレナ村へ向かう途中では、貴族同士が争っていると」


「それも君の手紙に書いてあったね」


 マリアナは首を傾げた。


「皆様、どうしてそんなに私たちを喧嘩させたいのでしょう?」


「そこなんだ」


 ラドルフが椅子へ背を預ける。


「最初は私も、婚約解消なんて珍しいから面白半分に話が広がっただけだと思っていた」


「でも、少し広がりすぎている」


 マリアナは静かに聞いていた。


「ガーダリン侯爵家と付き合いの深い貴族は多い。うちも同じだ」


「ええ」


「領地も違う。繋がっている商人も違う。政治について父上と君の父上の考えがいつも同じというわけでもない」


「そうなのですか?」


「君、本当にそういうところに興味がなかったんだね」


「お勉強はいたしましたわ」


「興味がなかっただけか」


「はい」


 ララノヴァが少しだけ視線を逸らした。


「でも」


 ラドルフは続ける。


「私たちが婚約していたことで、少なくともディフォン家とガーダリン家が争うことはないと思われていた」


 マリアナは少し考える。


「十一年間?」


「十一年間」


「私、七歳でしたのに?」


「七歳だったね」


「そんな頃から、皆様はそこまで考えていらしたの?」


「貴族だからね」


「大変ですわね」


「君も貴族だよ」


「そうでした……」



「つまり」


 マリアナは紙を並べる。


「私たちの婚約がなくなったことで、皆様が不安になっている?」


「それだけなら、まだいい」


「まだ?」


「その不安を煽っている人間がいる可能性もある」


 マリアナの顔から笑みが消えた。


「わざと?」


「まだ分からない」


 ラドルフはすぐに付け加えた。


「証拠は何もない。父上も、今の段階で誰かが意図的にやっていると決めつけるなと言っている」


「そうですわね」


「ただ、妙な話を聞いたら覚えておいてほしい」


「私が?」


「ああ。君はこれからも旅をするんだろう?」


「もちろんですわ」


「だったら、王都やセレナディアにいる者たちより、地方でどんな話が広がっているのか聞く機会は多い」


 マリアナは少し考え、頷いた。


「分かりましたわ」


 ラドルフが穏やかに笑う。


「頼んだよ」



 翌朝。マリアナとララノヴァが宿の食堂へ下りると、すでにラドルフが待っていた。


「おはよう」


「おはようございます」


「今日は、昨日話していた店へ?」


「それもあるけど、その前に隊商の手配をしてきたよ」


「まぁ」


「明日の朝、ラグナシア方面へ向かう隊商が出る。二日で観測地の近くにある野営地まで行けるそうだ」


「野営地?」


「ああ。この時期だけ、幻都を見に来た旅人たちが集まるらしい」


「まぁ!」


「着くのは、幻都が現れる前日の夕方になる」


「では、何もない砂海も見られますのね」


「そっちも楽しみなのかい?」


「もちろんですわ。そこに翌日、街が現れるのでしょう?」


 三人で街へ出た。昨日と同じように、通りには色鮮やかな日除け布が張られている。ラドルフが案内したのは、市場の奥にある小さな店だった。店先には、透明な石を薄く削った飾りがいくつも吊るされている。太陽の光が当たると、壁や地面へ淡い虹色の光が落ちた。


「綺麗ですわ」


「君なら気に入ると思った」


 マリアナは一つ一つ眺めていく。


「これは何の石ですの?」


 店の主人が答える。


「砂硝子ですよ。雷が砂漠へ落ちたとき、砂が熱で溶けてできるんです」


「雷で?」


「ええ。同じ形は一つもありません」


「素敵……」


 マリアナは完全に夢中になっていた。その横で、ラドルフが笑っている。


「ラドルフ様」


「うん?」


「ありがとうございます」


「ん?」


「このお店を見つけてくださったことですわ」


「ああ」


「私が好きそうだと思って、覚えていてくださったのでしょう?」


「そうだね」


 ラドルフは当たり前のように答えた。マリアナは旅先で自分が喜びそうな小さな店を見つけて覚えていてくれたことが、なぜか嬉しかった。


「どうした?」


「何でもありませんわ」


 マリアナは笑った。



 市場を抜けたところで、一人の商人がラドルフを見て足を止めた。


 しばらく顔を見つめたあと、驚いたように目を見開く。


「あの……失礼ですが、ラドルフ・ディフォン様では?」


「ああ。そうだけど」


「やはり。以前、セレナディアで何度かお見かけしたことがございます。うちの商会が公爵領へ品を運んでおりまして」


「そうだったのか」


 商人は頭を下げたあと、今度は隣にいるマリアナへ視線を向けた。


 淡い金色の髪の令嬢とラドルフを交互に見て、何かに気づいたように表情を変える。


「では、そちらの方は……」


「マリアナ・ガーダリンですわ」


「……え?」


 商人は目を見開いた。


「どうかなさいました?」


「いえ……失礼いたしました。ただ、両家は仲違いなさったと聞いておりましたので」


 マリアナとラドルフは顔を見合わせた。


「そのようなことはございませんわ」


「ああ。事実ではないよ」


「そうでしたか……」


 商人は困惑したまま頭を下げる。


「妙なことを申し上げました」


 そう言って、男は人混みの中へ消えていった。


「またですわね」


「ああ」


 ラドルフの表情から笑みが消えている。


 ここは王都から遠く離れた砂漠の街だ。それなのに、両家が争っているという噂は、すでにここまで届いている。


「ラドルフ様」


「うん?」


「少しだけ、嫌な感じがしてまいりましたわ」


「私もだよ」


 通りの向こうには、明日の旅へ向けて荷物を積み込む隊商が見えている。そのさらに先には、果てのない砂海が広がっていた。


 ラグナシアが姿を現すまで、あと三日。


 マリアナはまだ知らない。何もない砂海から現れる幻の都で、景色を見るだけでは終わらない出来事が待っていることを。



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