第十七話「手紙より先に」
二十四日目の夕方。
サハルディアへ向かう隊商が小高い砂丘を越えたところで、先頭を歩く案内人が前方を指した。
「見えてきましたよ。あれがサハルディアです」
砂駱獣の背に揺られていたマリアナは、すぐに顔を上げた。
「まぁ……!」
金色の砂の中に、白い街が浮かんでいる。遠くから見るサハルディアは、砂海に置かれた大きな島のようだった。白や薄い黄土色の建物が密集し、その間から何本もの細い塔が空へ伸びている。街を囲む低い城壁の外には隊商の天幕が並び、何十頭もの荷獣がゆっくりと歩いていた。
「本当に砂漠の中に街がございますのね」
「なければ困ります」
「それはそうですけれど」
マリアナは前方の街から目を離さない。二十日以上かけて少しずつ変わってきた景色の先に、ようやく目的地が見えた。もっとも、ここはまだラグナシアではない。砂海の幻都が現れる場所へ向かうための、最後の大きな街だ。
「幻都までは、あと四日ですわね」
「はい」
「間に合いました」
「何事もなくて何よりでございました」
「検問には止められましたけれど」
「あの程度で済んだ、と考えましょう」
マリアナも頷いた。街へ近づくにつれて、人の数が増えていく。長い外套で全身を覆った旅人、背中に二つの大きな瘤を持つ砂駱獣に荷物を山のように積んだ商人。
「まず宿へ参りましょう」
サハルディアの門をくぐった。外から見た以上に、街は賑やかだった。道の両側には日差しを遮るための布が渡され、白色の布越しに柔らかな光が落ちている。店先には見たことのない香辛料が山のように積まれ、乾燥させた果物、色鮮やかな陶器、銀細工、薄い布、砂漠用の革靴が並んでいた。どこからか肉を焼く香りが漂ってくる。
「ララノヴァ」
「駄目です」
「まだ何も言っておりませんわ」
「宿が先です」
「……はい」
残念そうに答えながらも、マリアナの視線は忙しく左右へ動いている。
「お嬢様、明日ゆっくり見ればいいですよ。この街は逃げませんから」
「ラグナシアは逃げますのに」
「そっちは四日後ですよ」
「そうでしたわ」
*
宿へ荷物を置いたあと、結局マリアナはすぐ街へ出た。
「少しだけですわ」
「その『少し』がどの程度なのか、最近分からなくなってまいりました」
「日が沈むまで?」
「二時間ございます」
「ちょうどよいですわね」
サハルディアでは、夕方になると昼間の暑さが嘘のように和らいでいった。昼の強い日差しを避けていた人々も通りへ出始め、街はさらに賑やかになる。露店で売られていた薄い焼き菓子には、砕いた木の実と蜂蜜が挟まれていた。
「美味しいですわ」
「また召し上がっておりますね」
「旅先のお菓子も景色の一つです」
「随分便利な言葉を覚えましたね」
次に目を留めたのは、色とりどりの布を売る店だった。砂漠では日差しと砂を防ぐため、頭から肩まで覆える薄布を身につけるのだという。
「これがよろしいですわ」
マリアナが選んだのは、淡い青色の布だった。
「お嬢様に似合いそうですね」
「ララノヴァは?」
「私はこれで」
ララノヴァは落ち着いた薄灰色を選ぶ。二人とも店の女性に巻き方を教えてもらった。
「どう?」
「似合っております」
「ララノヴァも」
「ありがとうございます」
近くの店では砂駱獣用の鈴が売られ、さらに進めば大きな水瓶ばかりを扱う店があり、その隣では砂漠を渡る旅人向けに保存食が積まれている。
「知らないものばかりですわ」
マリアナが楽しそうに言う。
「まだ幻都を見てもいないのに、もう満足されそうですね」
「まさか」
即答だった。
「ラグナシアは別ですわ」
そこだけは譲れないらしい。
*
日が沈む頃、二人は宿へ戻った。玄関を入ったところで、マリアナは思い出したように受付へ向かう。
「あの」
「はい」
「私宛てに手紙は届いておりませんか?」
宿の主人が顔を上げる。
「お名前を伺っても?」
「マリアナ・ガーダリンです」
主人は少し考え、それから首を横に振った。
「お手紙は届いておりませんね」
「そうですか……」
思ったより残念だった。フェレナ村から二十四日。ラドルフへ送った手紙がセレナディアへ届き、そこから返事がここまで届くには、さすがに時間が足りなかったのかもしれない。
「仕方ありませんわね」
「ですが」
主人が続けた。
「お客様ならいらっしゃいます」
「お客様?」
「ええ。マリアナ・ガーダリン様がお見えになったら知らせてほしい、と」
マリアナは首を傾げた。
「どなたでしょう?」
「食堂でお待ちです」
ララノヴァと顔を見合わせる。二人で食堂へ向かい、扉を開いた。窓際の席に、一人の男が座っていた。旅装だった。普段の公爵家の嫡男らしい隙のない服装とは違い、砂埃のついた長衣を羽織っている。艶のある黒髪も、いつものようにきっちり整えられてはいなかった。それでも、深いエメラルドグリーンの瞳だけは見間違えようがない。男がこちらを見る。
「やっと来た」
「……ラドルフ様?」
マリアナは目を丸くした。次の瞬間には、自然と笑顔になっていた。
「ラドルフ様!」
「ああ」
ラドルフも笑う。
「久しぶり」
「どうしてこちらに?」
「君がここへ来ると手紙に書いてあったから」
「でも、お返事は?」
「書こうとは思ったんだけどね」
ラドルフがテーブルの上に置かれた茶へ手を伸ばす。
「直接来た方が早そうだった」
「まぁ!」
マリアナは向かいの席へ座った。
「いつ到着されたのです?」
「今朝だよ」
「では、私たちより早かったのですね」
「今回はね」
「ずっとお待ちに?」
「街を少し見て回ったよ。君が喜びそうな店もいくつか見つけた」
「本当ですの?」
「ああ」
「どちらです?」
「明日案内するよ」
マリアナの表情がさらに明るくなる。
「では、明日はご一緒できるのですね」
「そのつもりで来たからね」
「ラグナシアも?」
「もちろん」
その言葉を聞いて、マリアナは胸がふわっと軽くなるのを感じた。エルシェナ山の歌はララノヴァと二人でも楽しかったけれど、聞き終えたあとに、ラドルフにも聞かせたかったと思ったのだ。今度は最初から一緒に見られる。
「嬉しいですわ」
素直にそう言った。ラドルフが一瞬だけ黙る。
「……そう言ってもらえると、急いで来た甲斐があるよ」
「お仕事は?」
「片づけてきた」
「全部?」
「全部ではない」
「やっぱり」
「何日か空けられるくらいにはね」
「では、四日後まで一緒ですのね」
「その予定だ」
「よかった」
また自然に言葉が出た。以前なら、ここまで素直に喜んだだろうか。ラドルフは何も指摘しなかった。ただ、少し嬉しそうに笑ったけれど、その笑みは長く続かなかった。
「それと、マリアナ」
「はい?」
「君の手紙に書いてあった噂のことだけど」
ラドルフの声が少し低くなる。
「調べてみた」
マリアナの表情も変わった。
「何か分かりましたの?」
「ああ」
ラドルフは一度、周囲を見た。
「ただの噂だと思っていたけど、少しおかしい」
「おかしい?」
「うちにも、君の家にも、事実ではない話がかなり届いている」
マリアナは黙って聞く。
「詳しい話は、食事のあとでしよう」
ラドルフが穏やかに笑う。
「長旅だったんだろう? まずは夕食だ」
「そうですわね」
マリアナも頷いた。
「私、この街のお料理もまだいただいておりませんもの」
ラドルフが笑った。
砂海の幻都が現れるまで、あと四日。
その夜、マリアナは久しぶりにラドルフと同じ食卓を囲んだ。




