第十六話「砂漠へ」
翌朝。マリアナは旅行記と暦を並べ、ラグナシアが姿を現す日を確かめていた。
「二十八日後ですわ」
「では、道程を確認してまいります」
ララノヴァは宿の主人と御者のもとへ向かい、しばらくして戻ってきた。
「お嬢様。フェレナ村から砂漠手前の宿場まで、順調に進んでも二十二日ほど。そこからサハルディアまでは、現地の隊商と一緒に二日ほどだそうです」
「二十四日……」
「余裕はあまりございません」
「でしたら、今日出ましょう」
「そうおっしゃると思いました」
マリアナは満足そうに頷いた。ほかにも何枚か付箋のついた頁がある。秋の終わりに一度だけ赤く染まる湖、冬至の前後に現れる氷の柱。けれど、今から向かって間に合うものは多くない。
「こうして見ると、行きたい場所へいつでも行けるわけではないのですね」
「当然でございます」
「半年に一度。一年に一度。数年に一度……」
マリアナは頁をめくる。
「見たいものの時期と、そこまでの道程を合わせなくてはいけませんのね」
「ようやく旅人らしいことをお考えになりましたね」
「今までも考えておりましたわ」
「滝を見たいから婚約を解消された方のお言葉とは思えません」
「それとこれとは別です」
ララノヴァは何も言わなかった。マリアナは旅行記を閉じ、昨日書いた手紙へ目を向ける。
「そうでした」
まだ封をしていない。
「ラドルフ様への手紙に、行き先を書き足しておきますわ」
新しい一枚を取り出す。
『追伸。次は砂海の幻都・ラグナシアを見に参ります。二十二日ほどかけて砂漠手前の宿場へ向かい、そこから隊商に加わってサハルディアという街へ向かう予定です。もしお返事をいただけるのでしたら、サハルディアへ届けていただけると嬉しいです』
書き終え、少し考えてから最後に一文加える。
『予定どおり進めば、今年の幻都が現れる日には間に合うはずですわ』
「本当に間に合いますでしょうか」
ララノヴァが横から言った。
「……おそらく」
「道中で何もなければ、ですが」
「では、何もないことを祈りましょう」
「旅の計画とは、祈りで立てるものではございません」
マリアナは笑いながら手紙を封じた。父への手紙も用意した。街道で耳にした噂について尋ねるだけの短いものだった。二通を宿の主人へ預け、その日のうちに二人はフェレナ村を発った。
*
砂漠までの道は、これまでで一番長かった。最初の数日は、まだエルシェナ山の峰が遠くに見えていた。灰色の山々を抜けると土地はなだらかになり、背の低い草原が続き、ところどころに赤茶色の土が覗く。
七日目。街道沿いの町で、乾燥させた果物を食べた。
「甘いですわ」
「水分が抜けた分、味が濃くなるそうです」
「旅に向いておりますね」
「実用的な感想です」
「私だって、いつも景色のことしか考えているわけではありませんわ」
そう言いながら、マリアナはもう一つ口へ入れた。
十日目には、木々が目に見えて少なくなった。十二日目には昼間の空気が熱を帯び始め、朝はまだ涼しいのに、昼になると馬車の窓から入る風まで温かくなった。
「暑いですわね」
「砂漠はまだ先ですよ」
「これより暑くなりますの?」
「なるでしょうね」
「まぁ……」
驚きながらも、声は少し楽しそうだった。御者が前から笑う。
「お嬢様、砂漠へ入ったら昼より朝と夕方に進むことになりますよ。馬も人も参っちまいますから」
「では、昼は?」
「日陰で休みます」
「旅をしているのに?」
「旅を続けるために、です」
マリアナは感心したように頷いた。
「覚えておきますわ」
*
十五日目。一行は街道の検問で馬車を止められた。槍を持った兵士が荷台を確認し、御者へ行き先を尋ねる。
「サハルディアです」
「商いか?」
「いえ。ガーダリン侯爵家のご令嬢をお送りしております」
兵士がわずかに表情を変え、馬車へ目を向けた。
「失礼ですが、身分を確認できるものをお願いできますか」
ララノヴァがガーダリン侯爵家の証明書を差し出す。
兵士はそれを確認し――一瞬だけ動きを止めた。
「……ガーダリン侯爵家」
隣に立つ兵士と、短く視線を交わす。
「何かございましたか?」
マリアナが尋ねる。
兵士はすぐに姿勢を正した。
「いえ。失礼いたしました。マリアナ・ガーダリン侯爵令嬢でいらっしゃいますね」
「ええ」
「確認は以上です。どうぞ、お通りください」
兵士は証明書をララノヴァへ返し、道を開けた。
馬車が動き出してから、マリアナは後ろを振り返った。
「今の方、変でしたわね」
「家名を見て反応されましたね」
「またでしょうか」
「分かりません」
しばらくして、御者が御者台から声をかけた。
「お嬢様。この辺りでは、最近になって検問が増えているようです」
「何かございましたの?」
「それが、どうにも話が定まりません。北と南の貴族が揉めているという者もいれば、東の大貴族が兵を集めているという者もおります」
「また貴族同士のお話?」
「はい。ただ――」
御者が少し間を置く。
「ガーダリン侯爵家のお名前まで出ている噂も耳にいたしました。私どもが屋敷を発った頃には、そのような動きはございませんでしたので、妙な話だとは思っておりますが」
「やっぱり、お父様は何もなさっていないのね」
「少なくとも、私が存じている限りでは」
マリアナは窓の外へ目を向けた。ラドルフから聞いた手紙、街道の商人、フェレナ村で聞いた話。そして今度は、検問まで増えている。
まだ何かが起きたと決まったわけではない。
けれど、ただの噂だと笑って済ませるには、少しずつ広がりすぎているようにも思えた。
「お父様からのお返事も、サハルディアで受け取れるようにしておいた方がよかったかしら」
「次の宿場で、サハルディアへ回していただくよう手配いたしましょうか」
「お願いするわ」
「かしこまりました」
*
ある朝、目を覚ましたマリアナは、馬車が走り出してしばらくしてから窓の外を見て、声を失った。
地面から、緑がほとんど消えていた。赤茶色の大地の向こうに、淡い金色の帯が見える。
「ララノヴァ」
「はい」
「あれは?」
ララノヴァも窓へ寄る。
「砂漠……でしょうか」
マリアナは窓を開けた。熱を含んだ乾いた風が、一気に頬を撫でる。遠くに見えていた金色の帯は、馬車が進むほど少しずつ大きくなっていった。
翌日、二人は砂漠の手前にある宿場へ到着した。
そこから先は砂が深く、馬車では進めないという。侯爵家の馬車と馬は宿場へ預け、御者にはそこで待っていてもらうことになった。
マリアナとララノヴァは、翌朝サハルディアへ向かう隊商へ加わることにした。移動には、砂漠を歩くために飼われている砂駱獣を借りる。
「砂駱獣……」
マリアナの目が輝いた。
「乗ってみたかったのですわ」
サハルディアまでは、あと二日。そして砂海の幻都が姿を現すまで、あと六日だった。




