第十五話「エルシェナの歌」
翌朝から、大喉の前には十人以上の村人が集まった。マリアナもその中にいた。村の女性から借りた丈夫な服に着替え、長い髪は邪魔にならないよう後ろでまとめている。
「どうです?」
宿を出る前、マリアナがララノヴァの前で一度回ってみせた。
「よくお似合いです」
「本当?」
「侯爵令嬢には見えません」
「それは褒めておりますの?」
「本日に限っては」
ララノヴァも笑っていた。
大喉へ着くと、すぐに作業が始まった。小さな石を運ぶ。倒木を切る。大きな岩へ縄を掛け、何人も並んで引く。
「せーの!」
掛け声とともに、岩が少し動く。もう一度。さらにもう一度。昼には全員の服が泥で汚れていた。マリアナも例外ではない。
「お嬢様」
「何です?」
「お顔にも泥が」
「どこですの?」
「右です」
「取れました?」
「余計に広がりました」
「まぁ」
近くにいた村の女性たちが笑った。マリアナも一緒に笑う。侯爵家にいた頃なら、こんな姿になることなどなかった。泥だらけになって、大勢で岩を引く。それなのに嫌ではない。むしろ楽しかった。
昼過ぎ。最後まで邪魔になっていた太い倒木へ、縄が掛けられた。
「引くぞ!」
ベルガの声で、十人以上が縄を持つ。マリアナも加わる。
「せーの!」
動かない。もう一度。
「せーの!」
木が軋み、少しだけ前へ出た。さらに、さらに。やがて倒木が岩の間から抜けた。
その瞬間。ゴオッ。大喉の奥から風が吹き出した。
「きゃっ」
マリアナの髪が大きく揺れる。
そして。ヒュウウウ――。
山のどこかで音がした。一つではない。少し遅れて、ボォォォ――と低い音が響き、さらに遠くから細い笛のような音が聞こえた。
「……」
全員が動きを止めた。ベルガが笑う。
「通った」
「歌っておりますの?」
「まだだ」
「まだ?」
「今のは、ほんの一部だ」
ベルガは空を見る。北から雲が流れてきている。
「本番は今夜だ」
これで山が歌う保証はない。ほかにも塞がっている風穴があるかもしれない。それでも。
「待ちますわ」
マリアナが山を見る。
「ここまで来たのですもの」
*
夕方。フェレナ村に強い風が吹き始めた。家々の扉はしっかりと閉じられている。けれど窓だけは開け放たれ、軒先には赤や黄色の細長い布が吊るされていた。風が吹くたび、布が一斉に揺れる。
村人たちも家の中には入らず、通りへ出ていた。マリアナとララノヴァも宿の前に立っている。
「北風だ」
ベルガが言った。
「間違いない」
風が谷を抜ける。ゴオオッと大きな音がした。だが、それだけだった。
「……」
誰も話さない。一分、二分。マリアナは山を見つめ続ける。さらに強い風が吹いた。そのとき。
ボォォォ――。
低い音が響いた。
「……!」
マリアナが顔を上げる。もう一度。
ボォォォォ――。
さっきより長く、腹の奥まで震えるような深い音。続いて。
ヒュウウウウ――。
次の瞬間、強い北風が山肌を駆け抜けた。
音が爆発した。
低く大地を震わせる音の上に、幾筋もの高音が重なる。鐘のような響きが遠くの峰から返り、鋭い笛の音が頭上を走る。右から生まれた音に左の峰が応え、そのさらに奥から別の音が重なってくる。
もはや、いくつ鳴っているのか分からなかった。
一つの音を聞いているのではない。山そのものが鳴っている。
胸の奥まで低音が響き、足元の地面から震えが伝わってくる。頭上では幾重もの高い音が交差し、遠くの峰から返ってきた響きまで重なって、夜の空気そのものが震えているようだった。
「……すごい」
マリアナは、それしか言えなかった。
旅行記には、山全体が一つの楽器になると書かれていた。
けれど、こんなものだとは思わなかった。
楽器というには、あまりにも大きい。
音を聞いているのではなく、自分まで巨大な音の中に呑み込まれているようだった。
隣では、ララノヴァが静かに目を閉じていた。
今回は、見るために来た旅ではない。
目を閉じれば、なおさらよく分かる。頬を撫でる風。髪を揺らす風。その風が遥か上の風穴を抜け、遠くの峰を鳴らし、また別の場所で新しい音を生む。音は重なり、離れ、また重なり、風が変わるたびに山の歌そのものが姿を変えていく。
「戻った……」
誰かが呟いた。あの風笛を売っていた老人だった。
「エルシェナの歌が戻った」
その声が震えている。
次の瞬間、村のあちこちから歓声が上がった。
「戻ったぞ!」
「エルシェナが歌ったぞ!」
誰かが笑い、誰かが隣の人と抱き合う。目元を拭っている老人もいた。
広場の端では、それまで火を入れずに待っていた篝火へ、次々と炎が灯された。高く組まれた薪に炎が移り、赤い火の粉が夜空へ舞い上がる。軒先から渡された色鮮やかな布が風を受けて大きくはためき、その上をエルシェナの歌が流れていく。
酒樽が開けられた。
大きな皿に盛られた焼き肉やパン、山菜を煮込んだ鍋が広場へ運ばれてくる。子供たちは火の周りを走り、大人たちは杯を掲げて笑っていた。
やがて誰からともなく踊り始める。
決まった音楽はない。
山が奏でる低い響きに合わせるように足を踏み、高い笛のような音が走れば手を叩く。風が変われば山の歌も変わり、それに合わせて人々の動きまで変わっていった。
「……お祭りですわね」
マリアナが笑う。
「ずっと待っていらしたのでしょうね」
ララノヴァも村人たちを見ながら答えた。
マリアナはもう一度、山を見上げる。
低い音が大地を震わせ、その上を鐘のような響きが渡っていく。村人たちの笑い声、杯の触れ合う音、焚き火が爆ぜる音まで、その中へ混ざっていた。
自分はただ、エルシェナ山の歌を聞きたくてここへ来た。
けれど今は、山の歌だけではなく、この夜そのものを見られたことが嬉しかった。
祭りは、山の歌とともに夜更けまで続いた。風が強まれば人々は顔を上げ、響きが大きくなれば歓声が上がる。
何度聞いたことがある者でも、初めて聞く子供でも、誰もが同じ山を見ていた。
やがて夜が深くなり、北風がゆっくりと弱まり始めた。最後に残ったのは、細い笛のような音だった。
それが消えるまで、広場にいた誰も山から目を逸らさなかった。
ヒュウウ――。
長く、細く、そして消えた。
「終わってしまいましたわね」
「そのようです」
ララノヴァが答える。マリアナはしばらく山を見つめていた。
「でも、聞けました」
「はい」
「ちゃんと」
自然と笑みが浮かぶ。逆さに流れる大瀑布、七色に光る洞窟、空を渡る銀色の魚、雲の上に咲く花、満月の海に現れる白い道。そして、風に歌うエルシェナ山。どれも違う。どれも旅行記の中で見たときより、ずっと大きく、ずっと綺麗だった。
「まだ、こんな景色が世界中にあるのですね」
「そうでしょうね」
「全部見たいですわ」
マリアナは笑った。
*
その夜。宿へ戻ったマリアナは、眠る前に便箋を取り出した。ラドルフへ送る手紙だった。
『ラドルフ様。エルシェナ山が歌いました。山が歌うなんて本当にあるのかしらと思っておりましたが、本当に歌いましたの。でも、うまく説明できません。低い音も、高い音も、鐘のような音もありました。風が変わるたびに、聞こえる音も変わります。目を閉じると、山の中にいるというより、音の中にいるようでした。ラドルフ様にもお聞かせしたかったですわ』
ペンが止まる。少し考える。以前なら、その一文を書くだけで迷った。今はもう迷わない。さらに続ける。
『それから、村の方々と一緒に山の風穴を塞いでいた岩や木を動かしました。服も顔も泥だらけになりました。ララノヴァには笑われましたけれど、とても楽しかったです。きっとラドルフ様が見ていたら驚かれたと思います』
そこで、街道で聞いた話を思い出した。マリアナは新しい行を作る。
『それと、少し変なお話を聞きました。旅の商人の方が、ガーダリン侯爵家とディフォン公爵家が争っているとおっしゃっていましたの。お父様がディフォン公爵家とのお付き合いを減らしているとも。私は何も聞いておりませんので、きっと噂が妙な形になっただけだと思うのですけれど。ラドルフ様がおっしゃっていた手紙のことを思い出しました』
書き終えてから、少し眺める。
「……やっぱり、変ですわね」
「何がですか?」
向かいで荷物を整理していたララノヴァが尋ねる。
「私たちは普通に仲良くしておりますのに」
「少なくとも、お嬢様とラドルフ様はそうですね」
「お父様たちもですわ」
「ええ」
「それなのに、どうして皆様は喧嘩をさせたがるのでしょう?」
「噂とは、そのようなものなのかもしれません」
「不思議ですわね」
マリアナは首を傾げた。けれど、それ以上考えても答えは出なかった。手紙を封筒へ入れる。
「明日出しておいてくださいな」
「かしこまりました」
*
翌朝。朝食を終えたマリアナは、いつものように旅行記を開いていた。次の目的地を探すためだ。
「あら」
「ございましたか?」
「まだですわ」
頁をめくる。湖、森、雪原、大峡谷。どれも気になるけれど、なかなか手が止まらない。そのとき、宿の入口から声が聞こえた。
「東から来たのかい?」
「ああ。えらい遠回りだったよ」
昨日とは別の旅人たちだった。大きな荷を背負った男が、宿の女性へ話している。
「街道でも何かあったのかい?」
「知らないのか? ディフォン公爵家がガーダリン侯爵家に圧力をかけてるって話だよ。あっちに近い領主たちが警戒して、検問を増やしてる」
マリアナの手が止まった。昨日聞いた話を思い出す。あの商人は何と言っていただろう。ガーダリン侯爵家が、ディフォン公爵家との付き合いを減らしている。今度はディフォン公爵家が、ガーダリン侯爵家へ圧力をかけている。
「……ララノヴァ」
「はい」
「昨日とは逆ですわね」
「そうですね」
ララノヴァも声を落とす。
「どちらが本当なのでしょう」
「どちらも本当ではないと思いますけれど」
「私もそう思います」
マリアナは旅行記へ目を戻した。偶然。噂が広がるうちに話が変わっただけ。そう考えれば、それほど不思議でもないのかもしれない。けれど。サルカディナ海岸でラドルフから聞いた話、街道の商人、山へ登る途中の若者。そして今。少しずつ、同じ話を聞く回数が増えている。
「……ラドルフ様からのお返事を待ちましょう」
「それがよろしいかと」
「お父様にも一度、お手紙を出した方がよさそうですわね」
「はい」
そう決めたところで、マリアナは旅行記へ視線を戻した。何枚か頁をめくり、やがて一つの見開きで手を止める。
「……ラグナシア」
果てしなく続く金色の砂。その中央に、巨大な都市が立っている。白い塔、長い回廊、いくつもの尖塔を持つ宮殿。そして街の中央には、大きな噴水。都市の半分は、砂の中へ沈むように描かれていた。
砂海の幻都・ラグナシア。
一年に一度、わずか一夜だけ、何もない砂海の中央に古い都が姿を現す。日没とともに砂の中から街が現れ、夜明けとともに再び沈む。人の住まぬ都でありながら、夜になると街路には明かりが灯り、枯れたはずの噴水から水が流れるという。
何度読んでも、不思議な頁だった。
マリアナは日程を頭の中で確かめる。
「ララノヴァ」
「はい」
「今年のラグナシアが現れる時期、もうすぐでしたわよね」
「ええ。ここからの道程を考えても、間に合うかと」
マリアナの顔が明るくなった。
「では、砂漠へ参りましょう」
「そうおっしゃると思いました」




