第十四話「山の喉」
翌朝。マリアナとララノヴァは村の広場にいた。目の前には、昨日の山守がいる。ベルガという名だった。
「本気で来るつもりか?」
「はい」
「昨日も言ったが、観光客を案内する道じゃない」
「分かっております」
マリアナの腰には旅用の剣がある。ベルガがそれを見る。
「使えるのか?」
「ええ」
「どの程度?」
「盗賊程度でしたら問題なく」
「盗賊?」
「五人ほど――」
言いかけて、マリアナは少し考える。
「いえ。何人でも、それほど変わりませんわ」
ベルガが黙った。
「……分かった」
「よろしいのですか?」
「俺から離れるな。それが条件だ」
「ありがとうございます」
ベルガが今度はララノヴァを見る。
「あんたは?」
「剣は使えません」
「大丈夫なのか?」
「お嬢様がおりますので」
ララノヴァは平然としていた。ベルガは二人を交互に見る。
「変わった主従だな」
「よく言われます」
「私は初めて聞きましたわ」
ベルガに、村の若者二人。マリアナとララノヴァ。五人でエルシェナ山へ入った。
*
最初の一時間ほどは、比較的歩きやすい道だった。低い草が広がり、その間に白い花が咲いている。足元には細い水が流れている。だが、高度が上がるにつれて景色は変わった。草が減り、土が消え、灰色の岩が増えていく。風も強くなった。
「山の中にも音がございますね」
マリアナが立ち止まる。
「風ですわ」
岩の隙間を風が抜け、小さく鳴っている。ヒュウ。ヒュルル。場所によって少しずつ音が違う。
「それが風穴だ」
ベルガが足を止めた。岩壁の下に、拳ほどの穴がいくつも開いている。
「こんな小さなものも?」
「ああ。これも山の喉の一つだ」
ベルガが手を近づける。
「風の向きが合えば、もっと鳴る」
「全部でいくつあるのです?」
「知らん」
「知らない?」
「数百までは数えた奴がいるらしいが、それ以上は諦めたそうだ」
マリアナは笑った。
「それだけあれば、確かに山全体が楽器ですわね」
「昔の連中は、一つ一つに名前まで付けたらしいぞ」
「まぁ」
「今でも有名なのはいくつか残ってる。泣き笛、婆さん鐘、狼喉……」
「婆さん鐘?」
「鳴ると婆さんが怒鳴ってるみたいなんだ」
「聞いてみたいですわ」
ベルガが笑う。
「山が歌えばな」
その言葉で、皆が少し静かになった。
歩き出してしばらくした頃、村の若者の一人がベルガへ話しかけた。
「そういや、兄貴からまだ便りが来てない」
「商隊に出てる兄貴か?」
「ああ。いつもなら昨日には戻ってるはずなんだけどな」
「遠回りでもしてるんじゃないか?」
「最近、南の街道がおかしいって言ってたからな」
マリアナは何となく耳を傾けた。
「街道が?」
尋ねると、若者が振り返る。
「ああ。検問が増えたとか、荷を調べられるようになったとか。俺も詳しくは知らないけど」
「どうしてですの?」
「貴族同士が揉めてるとか何とか」
まただった。
「どちらの?」
「さあ。俺はそこまでは」
ベルガが苦笑する。
「山の中まで来て貴族の話なんぞするな。風が逃げるぞ」
「風はそんなことで逃げませんわ」
「ここの風は気難しいんだ」
「まぁ」
マリアナは笑った。会話はそれで終わった。けれど、少しだけ気になった。サルカディナでラドルフから聞いた話。街道沿いの店で商人から聞いた話。そして今。どれも大した話ではない。それなのに、少しずつ自分の旅の周りへ近づいてきているような気がした。
*
さらに登る。道は次第に狭くなり、片側が急斜面になった。岩の向こうから何かが転がる音がする。ベルガが手を上げた。
「止まれ」
全員が足を止める。低い唸り声とともに、岩陰から大きな獣が姿を現した。灰色の毛、長い牙、山羊のような太い脚。
「岩牙獣だ」
若者二人が武器を構える。
「縄張りに入ったか」
獣が前脚で地面を掻く。ベルガが声を落とす。
「ゆっくり下がれ」
「私が前へ出ますわ」
マリアナが剣を抜く。
その直後、岩牙獣が地面を蹴った。巨体が一直線に迫る。マリアナは正面から待った。あと数歩。斜め前へ体をずらす。獣が脇を抜ける瞬間、剣を返し、剣の腹で首筋を強く打った。鈍い音がし、岩牙獣がよろめく。マリアナは追わない。獣が振り返って再び唸ったが、今度は突っ込んでこなかった。数秒、人間たちを睨み、やがて岩場を駆け上がり、山の奥へ姿を消した。
完全に見えなくなってから、マリアナは剣を収める。
「行きましたわね」
「……ああ」
ベルガが呆気に取られている。
「殺さなかったのか?」
「逃げてくださいましたから」
「そうか」
「はい」
「……本当に剣を使えたんだな」
「申し上げましたでしょう?」
ララノヴァだけは最初から何事もなかったような顔だった。
*
昼を過ぎた頃。一行は巨大な岩壁へ辿り着いた。中央に、縦へ裂けるような亀裂がある。人が数人並んでも入れそうなほど大きい。
「これが大喉?」
「ああ」
ベルガが険しい顔をした。近づいて、全員が理由を理解した。
「……塞がっておりますわね」
亀裂の奥に、大量の岩と倒木が積み重なっている。大きな岩、折れた木、土砂で奥がほとんど見えない。
「先月、ひどい雨があった」
ベルガが岩へ手を置く。
「そのときに崩れたんだろう」
「でしたら、これが原因ですの?」
「分からん」
ベルガは首を振る。
「エルシェナには風穴が多すぎる。大喉だけで全部が決まるわけじゃない」
「でも」
「ああ」
ベルガも頷く。
「これじゃ、まともに風が入らん」
村の若者たちが崩落箇所を見る。
「取り除こう」
「少しでも風を通す」
マリアナも岩へ近づいた。
「私も手伝います」
ララノヴァが彼女の服を見る。
「お嬢様」
「何ですの?」
「そのお召し物で岩を運ばれるおつもりですか?」
マリアナは自分の服を見る。旅装ではあるものの、岩を運ぶための服ではない。
「……今日は小さいものだけにいたしますわ」
「それがよろしいかと」
作業が始まった。動かせる岩を一つずつ外へ運ぶ。枝を折る。泥を掻き出す。大きな倒木は縄を掛けて引いた。一時間、三時間。日が傾き始める。
「今日はここまでだ」
ベルガが言った。亀裂にはまだ大量の岩が残っている。だが最初より、奥が少し見えるようになった。
そのとき。ヒュウ。小さな音がした。
「……今」
マリアナが顔を上げる。全員が黙る。もう一度。ヒュウウ。亀裂の奥から、細い風が抜けた。
「鳴りましたわ」
「まだ歌じゃない」
ベルガが笑う。
「山が喉を鳴らしただけだ」
「それでも」
マリアナも笑う。
「聞こえましたわ」
ベルガは大喉の奥を見る。
「明日、村から人を連れてくる」
「私も参ります」
「そうおっしゃると思いました」
ララノヴァが小さく息を吐いた。
空を見上げると、北の方角から薄い雲が流れてきていた。
「明日の夕方には、強い風が来る」
ベルガが言う。
「それまでに、できるだけ開けるぞ」
「はい」
マリアナは大きく頷いた。




