第十三話「歌わない山」
サルカディナ海岸を発って十日。海の気配は、いつの間にか完全に消えていた。馬車の窓から見える景色は、一日ごとに険しくなっている。柔らかな緑の丘は消え、代わりに灰色の岩山が連なる。ところどころに背の低い木が生えているものの、風に押されたように幹が斜めに傾いていた。
「随分、景色が変わりましたわね」
「風が強い土地なのでしょう」
ララノヴァが窓の外を見る。その言葉を裏付けるように、馬車の外からヒュウ、と風の音が聞こえた。道沿いを流れる川は細いが、流れは速く、岩の間を白い飛沫を上げながら下っている。
「今日はどこまで進めそうかしら?」
マリアナが御者台へ声をかける。
「この調子なら、夕方にはフェレナ村まで行けますよ」
「では、今日中にエルシェナ山が見られますのね」
「山そのものなら、もう少しすれば見えてくると思います」
途中の小さな集落では、焼いた木の実を蜂蜜で固めた菓子を買った。休憩のために馬車を停めた街道沿いの店には、数人の商人がいた。荷馬車を並べ、昼食を取っている。
御者にも昼食を取ってもらうことにして、マリアナとララノヴァも店へ入った。マリアナとララノヴァは窓際の席へ座り、温かい茶を頼んだ。
「北へ行くのか?」
近くにいた商人が、別の男へ尋ねる。
「そのつもりだったが、やめた」
「またか」
「ああ。東側へ回る」
「遠回りだぞ」
「仕方ない。大貴族同士が揉めてるって話だろ。荷を巻き込まれたらたまらん」
マリアナは何気なく聞いていた。ところが。
「ガーダリンとディフォンだったか?」
自分の家名が聞こえた。マリアナの手が止まった。
「そうそう。婚約がなくなったらしいじゃないか」
「女の方から切ったんだろ?」
「ガーダリン侯爵がディフォン公爵側との付き合いを減らしてるって話だ」
マリアナはララノヴァを見る。ララノヴァもこちらを見ていた。
「……ララノヴァ」
「はい」
「お父様、そんなことを?」
「少なくとも、お屋敷を出るまでにそのようなお話は聞いておりません」
「ですわよね」
マリアナは少し迷ってから、商人たちへ声をかけた。
「あの」
「ん?」
「そのお話、どちらでお聞きになったのですか?」
「どの話だい?」
「ガーダリン侯爵家とディフォン公爵家が争っているという」
「ああ。三日前に泊まった町だよ。南から来た商人が言ってた」
「本当なのですか?」
「さあな」
男は腕を組んだ。
「俺たちみたいなのは、本当かどうかより、危なそうかどうかで道を決めるからね」
隣の商人も笑う。
「貴族様が喧嘩するなら勝手にやってくれりゃいいんだが、街道まで止められちゃ困る」
マリアナは曖昧に笑って、席へ戻った。
「変ですわね」
「ええ」
「ラドルフ様が言っていた話と、少し違いません?」
サルカディナ海岸の宿でラドルフから聞いたのは、両家が袂を分かったのかという問い合わせが来ている、という話だった。今の商人が話していたのは、ガーダリン侯爵家がディフォン公爵家との付き合いを減らしているという話。
「噂というものは、広がるうちに変わるものでございます」
「そういうもの?」
「多くは」
「では、これもそうでしょうか」
「今のところは、何とも」
マリアナは少し考えたものの、やがて茶を飲んだ。
「フェレナ村に着いたら、お父様にもお手紙を書いてみますわ」
「それがよろしいかと」
外へ出る。街道には今日も旅人が行き交っている。何か大きな問題が起きているようには見えなかった。マリアナも、まだそれ以上深く考えなかった。
*
昼を過ぎた頃。
「お嬢様」
「はい?」
「あれでは?」
ララノヴァが指を差す。遥か向こう。いくつもの山の奥に、一際高い峰が見えていた。頂上近くが二つに割れた奇妙な形。灰色の岩肌が日の光を受け、淡く白く輝いている。
「エルシェナ山……」
旅行記の絵と同じだった。
「ようやくですわね」
「まだ麓まで半日近くはかかるそうですが」
「見えただけでも嬉しいですわ」
マリアナは窓から身を乗り出しかける。
「お嬢様」
「分かっております」
きちんと座り直した。
*
フェレナ村へ到着したのは、夕暮れ近くだった。エルシェナ山の麓にある、小さな村。石を積み上げて造られた家々が斜面に沿って並んでいる。屋根は低く窓は小さい。家と家の間には、強い風から守るためなのか、腰ほどの高さの石垣が長く続いていた。
「随分しっかりした造りですわね」
「冬はかなり風が強いのでしょう」
村へ入ったところで、マリアナは違和感を覚えた。
「……静かですわね」
「そうですね」
旅行記には、エルシェナ山が歌う季節になると、多くの旅人がこの村を訪れると書かれていた。けれど旅人らしい姿は少ない。道沿いには木造りの小さな露店がいくつも並んでいるのに、その半分以上は閉まっている。赤や黄色の細長い布飾りも吊るされているが、どことなく寂しい。
「お祭りでもあるのでしょうか」
「後で聞いてみましょう」
二人が宿へ入る。受付にいた年配の女性が顔を上げた。
「いらっしゃい。二人かい?」
「はい」
マリアナは微笑む。
「エルシェナ山の歌を聞きに参りました」
すると。
「ああ……」
女性の顔から笑みが消えた。マリアナとララノヴァが顔を見合わせる。
「何かございましたの?」
「山が歌わないんだよ」
「……歌わない?」
「ああ」
女性は窓越しにエルシェナ山を見る。
「今年はもう二度、北風が来た。でもほとんど歌わなかった」
「そんなことがあるのですか?」
「私もこの村で五十年以上暮らしてるけど、初めてだよ」
マリアナは窓の外を見る。夕暮れの中、エルシェナ山は静かに立っている。
「原因は分かっておりますの?」
「それが分からなくてね。村の山守たちも何度か調べに行ってる」
「次に北風が来るのは?」
「天気読みの爺さんは、明後日の夕方あたりじゃないかって言ってるよ」
「明後日……」
ララノヴァがマリアナを見る。
「どうなさいます?」
「待ちますわ」
即答だった。宿の女性が目を丸くする。
「聞けないかもしれないよ?」
「それでもです」
マリアナは笑う。
「ここまで来ましたもの」
「そうかい」
女性も少しだけ笑った。
「最近は、そう言って待ってくれる旅人も減ってね。みんな一日か二日で帰っちまう」
「私は何日でも待ちますわ」
宿の女性が笑った。
*
荷物を置いたあと、二人は村を歩いた。閉じていた露店の一つで、老人が木の板を片付けている。台の上には、小さな笛が並んでいた。
「これは?」
「風笛だよ」
老人が一本を手に取る。
「エルシェナの風穴を真似て作ってある」
息を吹き込むと、細く柔らかな音が鳴った。
「まぁ」
「本物の山は、こんなもんじゃないけどね」
「どんな音なのです?」
老人は少し考えた。
「説明できん」
「説明できない?」
「一つの音じゃないからな」
老人は山を見る。
「腹の底に響く音もあれば、空から降ってくるみたいな音もある。風が強くなれば、山のあちこちから違う音が聞こえてくる」
「素敵ですわね」
「ああ」
老人の顔に笑みが浮かぶ。
「だから毎年、聞いてても飽きない」
近くには、色鮮やかな細長い布が束ねられていた。
「こちらは?」
「山が歌う時期に家の前へ飾るんだ。風に揺れるだろ?」
「ええ」
「昔から、この村じゃ風歌いの夜は窓を開けて、これを飾る」
マリアナは村の入口で見た布飾りを思い出す。
「今年は?」
「二度とも駄目だった」
老人は肩を落とした。
「次で鳴らなけりゃ、今年の風歌い祭りは中止だろうな」
「お祭りがあるのですね」
「ああ。本当なら今頃、もっと旅人でごった返してる」
閉じた露店、静かな通り。宿に馬車が少なかった理由が分かった。街道で聞いた妙な噂も気にはなった。けれど今、目の前にいる老人が待っているものは、それとは何の関係もない。マリアナはエルシェナ山を見る。ただ自分が聞きたいだけではなくなっていた。この村の人たちも、山が歌うのを待っている。
*
夕食には、羊肉を香草と塩で焼いた料理が出た。付け合わせは潰した豆と山菜。さらに、薄く切った根菜を焼いたもの。
「美味しいですわ」
「本当に何を召し上がってもそうおっしゃいますね」
「だって美味しいですもの」
マリアナはもう一切れ食べる。そのとき、外から鐘が鳴った。一度、二度。宿の女性が顔を上げる。
「山守だ」
「山守?」
「広場で話があるんだろう」
二人も外へ出た。村の中央には、十数人の人々が集まっている。その中心に、日に焼けた四十前後に見える男だった。
「明日の朝、大喉を見に行く」
周囲がざわめく。
「大喉?」
マリアナが小声で尋ねる。宿の女性が答えた。
「山で一番大きな風穴さ。あそこを通った風が山の奥へ入っていくんだ」
山守の男が続ける。
「風は来ている。それなのに鳴らないなら、どこかで風が止まってる可能性がある」
マリアナはじっと聞いていた。
「……見に行けるかしら」
「お嬢様」
ララノヴァが即座に反応した。
「まだ何も言っておりませんわ」
「言われる前に分かりました」
「でも気になりますでしょう?」
「気にはなります」
「では」
「安全が確認できてからです」
マリアナは少し考える。
「山守の方に聞いてみましょう」
「最初からそのつもりだったでしょう」
マリアナは答えなかった。広場の向こう、夕闇に沈み始めたエルシェナ山は、今日も静かなままだった。




