第十二話「次は、山の歌を」
満月の翌朝。昨夜まで大勢の人で賑わっていたサルカディナ海岸は、嘘のように静かだった。朝の光を受けた海は淡い青色に輝き、波がゆっくりと砂浜へ寄せている。満月の下、海を左右へ分けて現れた白い道は、もうどこにもなかった。マリアナは宿の食堂の窓から、その海を眺めていた。
「不思議ですわね」
「何が?」
向かいに座るラドルフが尋ねる。
「昨日の夜は、あの海の中を歩いていたのですもの」
「ああ」
「こうして見ると、夢だったように思えてしまいますわ」
「そうだね」
マリアナは傍らの鞄へちらりと目を向けた。その中には、スクアニ湖の町でラドルフから贈られた、小さな銀色の硝子の魚が大切にしまってある。
そして昨夜のことも、はっきり覚えていた。月明かり、両側に広がる黒い海、アルジシ島へ続く白い道。ラドルフが差し出した手と、その手を取って一緒に歩いたこと。
思い出していると、ラドルフが食後の茶を一口飲んだ。
「私は昼にはここを発つよ」
「……そうですか」
思っていたより早く、言葉が口から出た。
「仕事がありますものね」
「ああ。さすがにこれ以上は父上に怒られる」
「もう随分怒られていたのでは?」
「だからこれ以上は、だよ」
ラドルフが笑った。マリアナも笑ったものの、胸の奥には少しだけ寂しさが残った。スクアニ湖で別れたときにも同じような気持ちになったけれど、今はあのときよりも少しだけ大きい。まだ目の前にいるのに、昼にはもう出発してしまう。そう思うと、それだけで少し寂しかった。
「それに、戻ったら少し確認したいこともある」
「確認?」
「ああ」
ラドルフが茶器を置く。
「こちらへ来る前、父上のところへ妙な手紙が何通か届いていたんだ」
「どのような?」
「君の父上と、うちの父が本当に袂を分かったのか、と」
マリアナは首を傾げた。
「……袂を?」
「私たちの婚約が解消されたからだろうね。両家の仲が悪くなったと思っている人間がいるらしい」
「まぁ」
思わず声が漏れた。
「お父様たち、普通にお話ししていらっしゃいましたのに」
「ああ。父上も最初は笑っていたよ」
「最初は?」
「同じような問い合わせが何件も来ると、さすがに気にはなるらしい」
「変ですわね」
「婚約なんて、当人たちだけの話では済まないからね。特にうちと君の家の場合は」
言われてみれば、そうなのかもしれない。マリアナにとって婚約を解消した理由は、とても単純だった。結婚する前に、世界を見たかった。そしてラドルフも、それを受け入れてくれた。けれど、外から見れば違うのだろう。
「でも、少しすれば分かるでしょう?」
「私もそう思っている」
ラドルフは深刻そうではなかった。
「父上と君の父上が喧嘩をしているわけでもない。私もこうして君を追いかけているしね」
「本当ですわね」
「昨日なんて二人で海の中を歩いていた」
「それを皆様にお見せすればよろしいのでは?」
「さすがに難しいな」
マリアナは笑った。その程度の話だった。少なくとも、そのときのマリアナにはそう思えた。
「では」
マリアナは少し考えてから言った。
「次にお会いしたときのお話を、たくさん増やしておきますわ」
「ああ」
ラドルフの表情が柔らかくなる。
「それを楽しみにしているよ」
「次は何を見ましょう」
「もう次なのかい?」
「もちろんですわ」
マリアナは椅子から立ち上がる。
「旅行記を持ってまいります」
「朝食が終わったばかりだけど」
「見るだけですもの」
ラドルフが微笑むとマリアナは、部屋へ旅行記を取りに戻った。
しばらくして、三人は食堂の窓際で一冊の旅行記を囲んでいた。マリアナが頁をめくっていく。真冬だけ青く染まる森、夕暮れになると岩壁が真っ赤に輝く谷、巨大な氷柱が天井から地面まで伸びる北方の洞窟。
「これも綺麗ですわ」
「先ほどから全部そう言っていますね」
「だって全部見たいのですもの」
ララノヴァが小さく息を吐く。
「お嬢様の旅が終わる日は来るのでしょうか」
「世界中を見終えたら?」
「一生かかるかと」
「それも素敵ですわね」
マリアナは楽しそうに頁をめくる。そして手が止まった。
「あら」
描かれていたのは、一つの山だった。植物の少ない灰色の山肌、いくつもの鋭い峰。その周囲には、吹き抜ける風を表す線が幾重にも描かれている。
「エルシェナ山ですわ」
マリアナの声が少し弾む。古くから風歌いの山と呼ばれる場所。年に数度、北方から強い風が吹く夜、山中に無数に存在する風穴を風が通り抜け、低く大地を震わせる音や、笛のように細く高い音、遠くで鳴る鐘のような音が幾重にも重なり合うという。何度も読んだ頁だったが、文章だけではその音だけはどうしても想像しきれなかった。
「やはり、一度聞いてみたいですわ」
ラドルフも横から旅行記を覗き込む。
「私も気になるな。山全体が楽器のようになるなんて、聞いてみないと分からないだろうね」
「でしょう?」
マリアナの顔が明るくなる。
「では、次はエルシェナ山にいたしましょう」
「決まったのですね」
「もちろんですわ」
ララノヴァはすでに慣れた様子で頷いたが、ラドルフだけが少し笑っている。
「おかしいですか?」
「いや」
ラドルフは首を横に振る。
「君が次に何を見つけるのか楽しみになっている」
その言葉に、マリアナは嬉しそうに笑った。
「では、ご一緒に?」
「残念だけど、それは無理だ。今度こそ仕事をしないとね」
「そうでしたわね」
「そんなに残念そうな顔をされると、帰りづらいな」
「残念ですもの」
言ってから、マリアナは自分で少し驚いた。以前なら、こんなことを素直に言っただろうか。ラドルフも一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑みへ戻る。
「また行ける場所には行くよ」
「約束ですわよ」
「ああ」
「では、エルシェナ山の歌は私が聞いてまいります」
「頼んだよ」
「どんな歌だったか、お手紙に書きますわ」
「楽しみにしている」
*
昼過ぎ。宿の前には、ラドルフの馬が用意されていた。二人の護衛もすでに支度を終えている。
「気をつけて」
「ラドルフ様も」
「知らない場所へ一人で突っ込まないように」
「ララノヴァがおりますわ」
「止められるのかい?」
ラドルフがララノヴァを見る。
「努力はしております」
「ララノヴァ?」
ラドルフが笑った。
「では、また」
「ええ。また」
ラドルフが馬へ乗る。蹄の音が石畳を叩き、少しずつ遠ざかっていく。マリアナは宿の前から、その姿を眺めていた。昔は、次にラドルフと会う日など決まっていた。茶会、夜会、両家での食事。婚約者として予定を合わせればいつでも会えたけれど、あの頃はそれを楽しみにしたことなどなかったように思う。今は次にいつ会えるのか分からない。それなのに。
「……次は、どこでお会いできるのでしょうね」
マリアナが呟く。
「さあ」
隣のララノヴァが答える。
「ですが、お嬢様が旅を続けていれば、またどこかまで追いかけてこられるのでは?」
「そうでしょうか」
「かなり高い確率で」
マリアナは笑った。
「では、私たちも参りましょう」
「エルシェナ山へ?」
「ええ」
潮風が髪を揺らす。海で過ごした数日間も、とても楽しかった。けれど、次の景色がもう自分を待っている。そのときのマリアナは、朝に聞いた話のことなど、もうほとんど気にしていなかった。自分とラドルフの婚約がなくなった。ただ、それだけのことだと思っていた。




