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『滝が逆に流れるそうなので、婚約を解消します』  作者: NEA_


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12/21

第十二話「次は、山の歌を」



 満月の翌朝。昨夜まで大勢の人で賑わっていたサルカディナ海岸は、嘘のように静かだった。朝の光を受けた海は淡い青色に輝き、波がゆっくりと砂浜へ寄せている。満月の下、海を左右へ分けて現れた白い道は、もうどこにもなかった。マリアナは宿の食堂の窓から、その海を眺めていた。


「不思議ですわね」


「何が?」


 向かいに座るラドルフが尋ねる。


「昨日の夜は、あの海の中を歩いていたのですもの」


「ああ」


「こうして見ると、夢だったように思えてしまいますわ」


「そうだね」


 マリアナは傍らの鞄へちらりと目を向けた。その中には、スクアニ湖の町でラドルフから贈られた、小さな銀色の硝子の魚が大切にしまってある。


 そして昨夜のことも、はっきり覚えていた。月明かり、両側に広がる黒い海、アルジシ島へ続く白い道。ラドルフが差し出した手と、その手を取って一緒に歩いたこと。


 思い出していると、ラドルフが食後の茶を一口飲んだ。


「私は昼にはここを発つよ」


「……そうですか」


 思っていたより早く、言葉が口から出た。


「仕事がありますものね」


「ああ。さすがにこれ以上は父上に怒られる」


「もう随分怒られていたのでは?」


「だからこれ以上は、だよ」


 ラドルフが笑った。マリアナも笑ったものの、胸の奥には少しだけ寂しさが残った。スクアニ湖で別れたときにも同じような気持ちになったけれど、今はあのときよりも少しだけ大きい。まだ目の前にいるのに、昼にはもう出発してしまう。そう思うと、それだけで少し寂しかった。


「それに、戻ったら少し確認したいこともある」


「確認?」


「ああ」


 ラドルフが茶器を置く。


「こちらへ来る前、父上のところへ妙な手紙が何通か届いていたんだ」


「どのような?」


「君の父上と、うちの父が本当に袂を分かったのか、と」


 マリアナは首を傾げた。


「……袂を?」


「私たちの婚約が解消されたからだろうね。両家の仲が悪くなったと思っている人間がいるらしい」


「まぁ」


 思わず声が漏れた。


「お父様たち、普通にお話ししていらっしゃいましたのに」


「ああ。父上も最初は笑っていたよ」


「最初は?」


「同じような問い合わせが何件も来ると、さすがに気にはなるらしい」


「変ですわね」


「婚約なんて、当人たちだけの話では済まないからね。特にうちと君の家の場合は」


 言われてみれば、そうなのかもしれない。マリアナにとって婚約を解消した理由は、とても単純だった。結婚する前に、世界を見たかった。そしてラドルフも、それを受け入れてくれた。けれど、外から見れば違うのだろう。


「でも、少しすれば分かるでしょう?」


「私もそう思っている」


 ラドルフは深刻そうではなかった。


「父上と君の父上が喧嘩をしているわけでもない。私もこうして君を追いかけているしね」


「本当ですわね」


「昨日なんて二人で海の中を歩いていた」


「それを皆様にお見せすればよろしいのでは?」


「さすがに難しいな」


 マリアナは笑った。その程度の話だった。少なくとも、そのときのマリアナにはそう思えた。


「では」


 マリアナは少し考えてから言った。


「次にお会いしたときのお話を、たくさん増やしておきますわ」


「ああ」


 ラドルフの表情が柔らかくなる。


「それを楽しみにしているよ」


「次は何を見ましょう」


「もう次なのかい?」


「もちろんですわ」


 マリアナは椅子から立ち上がる。


「旅行記を持ってまいります」


「朝食が終わったばかりだけど」


「見るだけですもの」


 ラドルフが微笑むとマリアナは、部屋へ旅行記を取りに戻った。


 しばらくして、三人は食堂の窓際で一冊の旅行記を囲んでいた。マリアナが頁をめくっていく。真冬だけ青く染まる森、夕暮れになると岩壁が真っ赤に輝く谷、巨大な氷柱が天井から地面まで伸びる北方の洞窟。


「これも綺麗ですわ」


「先ほどから全部そう言っていますね」


「だって全部見たいのですもの」


 ララノヴァが小さく息を吐く。


「お嬢様の旅が終わる日は来るのでしょうか」


「世界中を見終えたら?」


「一生かかるかと」


「それも素敵ですわね」


 マリアナは楽しそうに頁をめくる。そして手が止まった。


「あら」


 描かれていたのは、一つの山だった。植物の少ない灰色の山肌、いくつもの鋭い峰。その周囲には、吹き抜ける風を表す線が幾重にも描かれている。


「エルシェナ山ですわ」


 マリアナの声が少し弾む。古くから風歌いの山と呼ばれる場所。年に数度、北方から強い風が吹く夜、山中に無数に存在する風穴を風が通り抜け、低く大地を震わせる音や、笛のように細く高い音、遠くで鳴る鐘のような音が幾重にも重なり合うという。何度も読んだ頁だったが、文章だけではその音だけはどうしても想像しきれなかった。


「やはり、一度聞いてみたいですわ」


 ラドルフも横から旅行記を覗き込む。


「私も気になるな。山全体が楽器のようになるなんて、聞いてみないと分からないだろうね」


「でしょう?」


 マリアナの顔が明るくなる。


「では、次はエルシェナ山にいたしましょう」


「決まったのですね」


「もちろんですわ」


 ララノヴァはすでに慣れた様子で頷いたが、ラドルフだけが少し笑っている。


「おかしいですか?」


「いや」


 ラドルフは首を横に振る。


「君が次に何を見つけるのか楽しみになっている」


 その言葉に、マリアナは嬉しそうに笑った。


「では、ご一緒に?」


「残念だけど、それは無理だ。今度こそ仕事をしないとね」


「そうでしたわね」


「そんなに残念そうな顔をされると、帰りづらいな」


「残念ですもの」


 言ってから、マリアナは自分で少し驚いた。以前なら、こんなことを素直に言っただろうか。ラドルフも一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑みへ戻る。


「また行ける場所には行くよ」


「約束ですわよ」


「ああ」


「では、エルシェナ山の歌は私が聞いてまいります」


「頼んだよ」


「どんな歌だったか、お手紙に書きますわ」


「楽しみにしている」



 昼過ぎ。宿の前には、ラドルフの馬が用意されていた。二人の護衛もすでに支度を終えている。


「気をつけて」


「ラドルフ様も」


「知らない場所へ一人で突っ込まないように」


「ララノヴァがおりますわ」


「止められるのかい?」


 ラドルフがララノヴァを見る。


「努力はしております」


「ララノヴァ?」


 ラドルフが笑った。


「では、また」


「ええ。また」


 ラドルフが馬へ乗る。蹄の音が石畳を叩き、少しずつ遠ざかっていく。マリアナは宿の前から、その姿を眺めていた。昔は、次にラドルフと会う日など決まっていた。茶会、夜会、両家での食事。婚約者として予定を合わせればいつでも会えたけれど、あの頃はそれを楽しみにしたことなどなかったように思う。今は次にいつ会えるのか分からない。それなのに。


「……次は、どこでお会いできるのでしょうね」


 マリアナが呟く。


「さあ」


 隣のララノヴァが答える。


「ですが、お嬢様が旅を続けていれば、またどこかまで追いかけてこられるのでは?」


「そうでしょうか」


「かなり高い確率で」


 マリアナは笑った。


「では、私たちも参りましょう」


「エルシェナ山へ?」


「ええ」


 潮風が髪を揺らす。海で過ごした数日間も、とても楽しかった。けれど、次の景色がもう自分を待っている。そのときのマリアナは、朝に聞いた話のことなど、もうほとんど気にしていなかった。自分とラドルフの婚約がなくなった。ただ、それだけのことだと思っていた。



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