第十一話「また会えましたわね」
翌日。マリアナとララノヴァは、朝から港町を歩いていた。満月までは、あと三日。けれど、その時間すらマリアナには楽しかった。朝市では焼いた小魚を挟んだ薄いパンを食べた。港では、沖から帰ってきた漁師たちが巨大な網を引き上げるところを眺めた。昼には岬まで歩き、白い灯台の上から海を見た。水平線は昨日と同じはずなのに、見る場所が変わるだけでまったく違って見えた。
「満月まで、まだ三日ございますね」
「ええ」
「待ち遠しいですか?」
「もちろんですわ。でも、この町もまだ見たいところがたくさんありますもの」
宿の扉を開ける。中へ一歩入ったところで、マリアナが足を止めた。
「……まぁ」
談話室の窓際に、一人の男が座っていた。旅装姿。テーブルの上には湯気の立つ茶。その傍らには、見覚えのある旅行鞄。男が顔を上げる。
「間に合ったようだね」
「ラドルフ様!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。ラドルフは立ち上がる。
「どうしてこちらへ?」
「君が手紙に書いただろう?」
「でも、お仕事は?」
「片づけてきた」
「全部?」
「全部ではないよ。数日ほどなら空けられる程度には」
マリアナはしばらく彼を見つめた。
「……本当に来てくださったのですね」
「ああ」
「本当に?」
「目の前にいるだろう?」
胸が温かくなった。ラドルフが来るかもしれないとは思っていた。でも期待しすぎないようにしていた。来られなくても仕方がない。自分はララノヴァと二人でも楽しめる。そう思っていた。それでも、実際に彼の姿を見ると。
「嬉しいですわ」
言葉がそのまま出た。ラドルフの表情が少し柔らかくなる。
「それなら、無理をした甲斐があったよ」
宿の外には、彼が連れてきた二人の護衛がいるという。
*
その日の夕方。三人は海辺の食堂へ向かった。窓の外では、夕日がゆっくりと海へ沈んでいく。
「それで?」
ラドルフが尋ねる。
「何ですの?」
「花畑だよ」
マリアナの目が明るくなった。
「聞いてくださいますの?」
「そのためにも来たんだ」
「では、最初からお話しいたしますわ」
そこからしばらく、ほとんどマリアナが話し続けた。夜明け前の寒さ、月明かりに浮かぶ雲海、最初に開いた白い花。朝日と一緒に、次々と色が広がっていったこと。
「それで、風が吹いたのです」
「うん」
「花が全部同じ方向へ揺れて、まるで波みたいで……その向こうにも雲が広がっておりましたの」
ラドルフは口を挟まず聞いていた。
「本当に、言葉では全部伝えられませんわ」
「そうだろうね」
「やっぱり、お見せしたかったです」
「ああ」
ラドルフは穏やかに笑った。
「でも、君の話を聞いていたら、少し見たような気がしたよ」
「本当?」
「君は楽しそうに話すからね」
マリアナは少しだけ照れた。
「次は、本当にご一緒できますわね」
「ああ」
ラドルフは窓の外を見る。夕暮れの海の上に、まだ完全には満ちていない月が昇り始めていた。
「今度は同じ景色を見られる」
その言葉が、マリアナにはとても嬉しかった。
*
それから三日後。
満月の夜。海岸には、大勢の人が集まっていた。
町の灯りから少し離れた浜辺。空には、丸い月が浮かんでいる。風は弱く、波も穏やかだった。沖には黒い影のようにアルジシ島が見える。
「あそこまで歩くのですね」
「ええ」
マリアナは旅行記を胸元へ抱えた。
「海の中を」
まだ道はない。足元まで波が寄せている。けれど、夜半が近づくにつれて少しずつ様子が変わり始めた。
波が遠ざかっていく。
「……始まった」
近くにいた地元の男が呟いた。浜辺の正面から、海がゆっくりと左右へ分かれていく。水面の下から、最初の白い石が姿を現した。
「まぁ……」
白い石は沖へ向かって真っ直ぐに続いていく。そして、月の光を受けた瞬間だった。
「……光っておりますわ」
濡れた石の内部に走る銀色の筋が、淡く光り始めていた。ただ月明かりを反射しているだけではない。石そのものの奥に、小さな光が閉じ込められているように見える。道が沖へ伸びるにつれてその光も一つずつ増えていき、さらに、左右へ退いた黒い海の中にも無数の青白い光が瞬いている。波が揺れるたびに光は散り、また集まり、白い道の両側を流れるように動いていく。
「綺麗……」
マリアナが息を呑んだ。やがて、アルジシ島まで一本の道がつながった。銀白色に輝く石の道、その左右には青白い光を散らす黒い海、そして頭上には同じ色の満月。
旅行記で何度も見た。
何度も想像した。
けれど。
「こんなに綺麗だなんて、書いてありませんでしたわ」
まるで月から一本の光の道が降りてきて、そのまま海の向こうまで続いているようだった。
「行こうか」
隣からラドルフが言った。
「ええ」
一歩目を踏み出す。石は思っていたより滑らかだった。まだ海水に濡れていて、月明かりを鏡のように反射している。そのとき、ラドルフが手を差し出した。
「滑るよ」
「大丈夫ですわ」
「……知っている」
「それでも手を取るくらいはさせてくれないか?」
マリアナは差し出された手を見る。婚約者だった頃、ラドルフの手を取ったことなら何度もあった。舞踏会、馬車を降りるとき、階段を上るとき。あの頃は、それが当然だった。けれど今は。
「……では」
マリアナはそっと手を重ねた。ラドルフの指が優しく握る。二人は並んで、白い道を歩き始めた。
マリアナが一歩踏み出すたび、濡れた白石の隙間から青白い光がふわりと浮かんだ。
足元で生まれた光は風に吹かれるように海へ流れ、やがて両側の無数の光へ溶けていく。
*
道の半ばまで来ると岸の灯りが遠くなり、左右には海だけになった。そのとき、マリアナが足を止めた。
「ラドルフ様」
「どうした?」
「海を」
黒い水面の中で、青白い光がゆっくりと動いていた。岸から見ていたときにはただ無数に瞬いているように見えた光が、ここまで来ると、波に運ばれながら白い道の両側へ集まっているのが分かる。一つの波が寄せると、青白い光の帯が道に沿ってすうっと沖へ走った。
「……まぁ」
今度は反対側で無数の光が流れ、三人の横を追い越していく。まるで、二本の星の川に挟まれた道を歩いているようだった。
「これは、岸からでは分かりませんでしたわね」
「ああ」
ラドルフも足元の海を見ている。
「歩いてみないと見えない景色だったんだな」
マリアナは嬉しそうに頷いた。
「やはり、来てみるものですわね」
二人は再び歩き始める。白い石の道、その左右を流れていく青白い光、頭上には丸い満月。
「不思議ですわね」
「何が?」
「海の中におりますのに、濡れておりません」
「道があるからね」
「分かっておりますけれど」
マリアナは楽しそうに笑った。その先では、地元の老夫婦がゆっくりと歩いている。
白い道には、家族連れもいれば、友人同士もいる。手を繋いだ男女も多かった。
「この道には、昔から言い伝えがあるそうです」
ララノヴァが少し後ろから言った。
「どんな?」
「満月の夜に二人で島まで渡りきれば、遠く離れても、また同じ道へ戻ってくるのだとか」
マリアナがラドルフを見る。
「まぁ」
「どうした?」
「いえ」
ラドルフはしばらく黙っていたが、やがて静かに笑った。
「悪くない言い伝えだね」
「私たちは元婚約者ですけれど」
「ああ」
ラドルフは握っている手を離さなかった。
「でも、私は今でも君が好きだ」
波の音の中でも、その言葉だけははっきり聞こえた。マリアナは少しだけ視線を落とす。
「……ラドルフ様は、いつも簡単におっしゃいますわね」
それ以上は何も言わなかった。ただ、二人は手を繋いだまま歩いた。
やがてアルジシ島へ辿り着く。小さな島の高台には、古い石造りの灯台があった。そこまで登り、海を振り返る。
「……」
マリアナは言葉を失った。
眼下には、今しがた歩いてきた白い道があった。
島から遥か彼方の岸まで、黒い海を真っ二つに裂くように、一本の白い線が伸びている。その両側では青白い光が波とともに瞬き、上から見ると、夜の海そのものに細かな星が散っているようだった。
道の上を歩く人々は、ここからでは小さな影にしか見えない。
そして、そのすべてを照らすように、海の向こうには満月が浮かんでいた。
「こんなふうになっていたのですね……」
歩いているときには、自分たちの前と後ろしか見えなかった。
けれど高台からなら分かる。
白い道は、本当に海の端から端まで一本につながっていた。
「綺麗……」
ララノヴァが呟く。マリアナも頷いた。
「ええ」
そして隣を見る。ラドルフも同じ景色を見ていた。今回は、説明しなくていい。どれほど綺麗だったか、どんな風が吹いていたか、月がどんな色だったか。同じ場所で、同じものを見ている。そのことが、景色そのものとはまた違う嬉しさを持っていた。
「ラドルフ様」
「うん?」
「来てくださって、本当によかったですわ」
「私もそう思う」
ラドルフは白い道を眺めたまま続ける。
「君が次に何を見たいと言い出すのか、今は少し楽しみになってきた」
マリアナが彼を見る。
「少し?」
「かなり、かもしれないね」
マリアナは笑った。
「では、またご一緒してくださいます?」
「行ける限りは」
「お仕事の邪魔にならない程度に?」
「できればそうしてほしい」
「努力いたしますわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて遠くの海から、鐘の音が響く。道が消え始める時刻を知らせる鐘だった。
「そろそろ戻りましょう」
ララノヴァが言う。
「ええ」
マリアナはもう一度だけ、月明かりの海を見た。今夜もまた、一つ。一生忘れたくない景色が増えた。そして今度は、その記憶の中にラドルフもいた。




