第十話「潮風の町」
海が見えたのは、それから七日目の午後だった。
「まぁ!」
山道を抜けた瞬間、視界いっぱいに青が広がった。マリアナは海そのものを初めて見るわけではない。家族で海沿いの別邸へ滞在したこともある。けれど、あの頃見ていた海とはどこか違っていた。行き先も日程もすべて決められ、整えられた別邸の窓から眺める海ではない。自分で旅行記を開き、自分でここへ来ると決め、何日も馬車に揺られて辿り着いた海だった。
「綺麗ですわね」
「ええ」
水平線がどこまでも続いている。強い風が吹き、草原が揺れた。遠くでは白い帆を上げた船が、ゆっくりと港へ向かっている。その先に、サルカディナ海岸の港町が見えた。白い石壁の家々が斜面に並び、屋根の多くは鮮やかな青色に塗られている。
「家まで海の色ですわ」
「潮風に強い塗料なのだそうです」
「それも素敵ですわね」
二人を乗せた馬車は、海へ向かって坂道を下っていった。
*
町へ入ると、これまで訪れた土地とは空気から違っていた。潮の香り、干された魚、船を修理する木槌の音。市場には朝に揚がったばかりの魚介が並び、見たことのない大きな貝や、黄色い殻を持つ蟹まで売られている。
「ララノヴァ」
「はい」
「あの大きなものは何ですの?」
「貝かと」
「私の顔より大きいですわ」
「比較する必要はないかと」
マリアナは興味深そうに覗き込んだ。
市場の奥では、大鍋から湯気が上がっている。魚と貝を香草と一緒に煮込んだ、この町の料理だという。二人は海の見える店に入り、それを注文した。赤みを帯びた汁の中には白身魚や貝、刻んだ野菜がたっぷり入っている。添えられた硬いパンを汁に浸して食べるらしい。
「まぁ……」
一口食べると、魚の旨味と貝の強い香りが広がった。
「美味しいですわ」
「またでございますね」
「仕方ありませんわ。本当に美味しいのですもの」
窓の外では、漁船が港へ戻ってくる。船から荷が下ろされるたびに、市場から声が上がった。マリアナは食事をしながら、何度もそちらへ目を向ける。
「こういう場所で暮らしている方々には、これが毎日の景色なのですね」
「そうですね」
「不思議ですわ」
マリアナにとって特別なものが、誰かにとっては日常だ。逆に、自分が十八年間当たり前だと思っていた侯爵家での暮らしも、ここにいる人々には遠い世界なのだろう。
「旅をすると、世界がどんどん広くなりますわね」
ララノヴァは静かに頷いた。
「お嬢様が楽しそうで何よりです」
「ララノヴァも楽しいでしょう?」
「ええ」
ララノヴァは迷わず答えた。
「私も随分、旅が好きになってきたようです」
マリアナは嬉しそうに笑った。
*
夕方。二人は海岸を歩いた。満月まで、あと四日。
月渡りの道は満月の前夜から三夜続けて現れる。けれど、マリアナが見たいのは真ん中――月が完全に満ちる夜だった。
今はまだ海が岸いっぱいまで満ちている。旅行記に描かれていた白い道など、どこにも見えない。
「あの海の下にあるのですね」
「そのようですね」
「本当に道が出てくるのでしょうか」
「疑っていらっしゃるのですか?」
「いいえ」
マリアナは海を見つめた。
「楽しみで仕方がないのです」
波が足元の近くまで寄せては戻っていく。夕日が海面に橙色の道を作っていた。
「……これだけでも綺麗ですわ」
マリアナは目を細める。そのとき、ふと思った。ラドルフから返事はまだ来ていない。そもそも手紙が届いているかも分からない。仕事が忙しいことも知っている。それでも。
「一緒に見られたら嬉しいですわね」
小さく呟く。
「ラドルフ様と?」
「……聞こえておりました?」
「すぐ隣におりますので」
マリアナは少し照れたように海へ視線を戻した。




